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【謝肉祭③】いっぱい食べる君が好き【ホラー短編集】

謝肉祭③ いっぱい食べる君が好き

 彼氏なんて絶対にできないと思っていた美都江は、丸山の一言であっさり恋に落ちてしまった。

「美都江ちゃんが食べてるとこ、好きだな」

 SNSを見れば、次から次へと細くて綺麗な女の子の写真が目に入る。ダイエット動画やサプリメントの広告も絶えず流れてくる中で、美都江は自身の体重を悪く感じ、収まらない食欲に嫌気がさしているところだった。
 頬杖をつき、はにかむように微笑んだ丸山。ルックスがよく、大学内での女性人気も高い彼からそんなことを言われるなんて、美都江には信じられないことだった。

「食べっぷりがいいって?」
「それもあるけど」

 美都江の可愛げのない返答に、丸山はにっこりと微笑んだ。

「美味しそうに食べる女の子って可愛くない? ずっと見ていたくなっちゃうよ」

 途端に脈が速くなり、食べていたハヤシライスは味がしなくなってしまった。
 美都江と丸山が付き合い始めるまでに、それほど時間は掛からなかった。丸山は積極的に美都江を食事に誘い、美都江は彼の期待に応えるために一生懸命になった。食べ物へのリアクションを研究し、美味しそうに食べることに心を砕く。
 うっとりとこちらに見惚れる丸山の存在は美都江の迷いを吹き飛ばし、いつの間にか食欲への罪悪感はどこかへ行ってしまった。痩せた女の子たちの自撮り写真は相変わらずタイムラインに流れてきているはずなのに、もはや視界にも入らない。美都江の検索履歴は口コミ高評価の飲食店で埋め尽くされた。
 幸福とはこういう味だったのかと、美都江は生まれて初めての感情を噛み締めていた。丸山と一緒にいると緊張のせいで食べ物の味がまるでしないが、それでも今まで食べたどんな食事より楽しく、美味しかった。
 美都江は幸せだった。
 他の誰よりも幸せな自信があった。

 
 体型の変化に気が付いたきっかけは、お気に入りのショートパンツが履けなくなったことだった。ウエストがきついし、太腿もぴちぴちだ。
 太腿と言えば、この頃は素足だと内腿が擦れて痛くなってしまう。それが嫌でスカートを履かなくなった。ゆったりとしたガウチョパンツを愛用するようになり、服選びは体型を隠せるかどうかが基準になった。
 朝、鏡の前で歯を磨きながら、キャミソール姿の自分がいやに逞しく見えることに気が付いた。体を斜めに捻ってみると、二の腕がとても太い。肉がしっかりと骨に纏わり付いているといった感じで、ずっしりと重みがあった。
 いつの間にこんなに体形が変わったのだろう。すっかり変わってしまった自分の姿に戸惑いを隠せない。
 一度意識してしまったものは頭から離れずに、鏡や窓硝子に映るたびに自分の体形を確認するようになった。太い。太っている。体のすべての部位があまりにも大きい。腰の括れはなくなり、あるのは肉の段差だけだ。
 周りの視線が気になった。
 あの子も細い。あの子も。あの子も。
 嗚呼、私は太っていると思われている。醜いと思われている。
 そんな被害妄想的な意識に囚われて、美都江は実に数ヵ月ぶりに自身の食欲を疎ましく思うようになった。
 だが、丸山はそんな美都江の内面の変化を受け入れなかった。
 楽しみにしていた家デートの日、丸山は手土産にドーナツを買ってきた。二人しかいないのに、大きな箱には十個もドーナツが入っている。砂糖がたっぷりかかったもの、チョコレートが付いているもの、生クリームがサンドされているもの。甘くて可愛いドーナツは、見るからに美味しそうだった。
 けれど、美都江は手を伸ばすことができなかった。口の中でじゃりじゃりとした砂糖の感触が思い出されて、それが吐き気に似た抵抗感を誘発する。
 美都江は沢山のドーナツを前に、首を振った。

「食べないの? みっちゃん」

 丸山が訊ねる。美都江は曖昧に微笑んだ。

「うん。今はお腹が空いてなくって」
「なんで? せっかく買ってきたのに?」

 彼が目を細めた。黒い双眸から光が消えたような気がして、美都江は急な居心地の悪さを感じた。

「あの、だって……お腹が……」
「みっちゃん、ドーナツ嫌いだっけ?」
「ううん。そんなことないよ」
「だったら食べないなんてことある? 俺、みっちゃんのためにわざわざ買ってきたんだけど。みっちゃんが喜んでくれると思って」
「あ、うん。嬉しいよ、ごめんね――」
「そうだよね? じゃあ、食べるでしょ?」
「うん……」

 畳み掛ける丸山を前に断り切れず、結局美都江はドーナツを手に取った。
 齧りつく。思い描いた通りの砂糖の食感と、強烈な甘さが口の中に広がった。同時に味わったのは食べることに関する罪悪感だった。

「美味しいね、みっちゃん?」

 丸山が微笑んでいる。優しい笑顔だ。美都江が大好きな顔。
 この笑顔が見られるなら、ちょっとのカロリーなんて安いものだ。あとで運動すればいいだけのこと。美都江はそう自分に言い聞かせて、促されるままドーナツを三個平らげた。
 罪悪感は消えずに心にこびり付いたけれど、美都江は見て見ぬふりをした。


 美都江はその後も太り続けた。
 運動は長続きしなかった。少しでも運動していることを仄めかすと、丸山から表情が消えるのである。押し殺したような声には苛立ちが籠っていて、そんな彼の様子を怖がるうち、運動への義務感よりも怠惰が勝るようになってしまった。
 体重への増加はいよいよ日常生活に支障を来すようになった。
 階段を上るのが大変だ。ちょっとの上り下りでも忌避するようになり、駅ではエスカレーターを求めてホームを延々と歩くようになった。エスカレーターはどれだけ長蛇の列ができていても、立ち止まって乗る方に並んでしまう。和式トイレは絶対に使わない。
 人とすれ違うのが億劫になった。通路が狭い店には寄り付かなくなった。食べた直後は眠くて堪らないので、休日は昼寝ばかりで出掛けることがなくなった。洗濯物を干すために腕を持ち上げるのがしんどくて、段々と洗濯をする周期も延びていった。
 全身に纏わりついた贅肉は、心まで脂肪で埋め尽くしてしまったようだった。
 本能が正常に持つべき危機感も鈍くなる。面倒だ。どうでもいい。何とかなる。そんな言い訳が第一に浮かぶようになった。嫌なことがあると食べ物で忘れるようにしている。物を食べると幸せを感じるという刷り込みは、美都江を現実から遠ざけた。
 しかし、そんな美都江でも危機感を抱く出来事が起きた。
 自宅でのことだ。寛いでいたソファーから立ち上がろうとして、どうにも上手くいかない。もたついているうちにうっかりバランスを崩してしまい、手をついたら鋭い痛みが腕に走った。
 病院に行った。
 手首の骨が折れていた。

「痩せたほうがいいですね」

 医者は美都江を見てそう言った。

「一度血液検査を受けてみた方がいいでしょう。糖尿病の恐れがあります」

 体重への意識が鈍っていた美都江でも、「糖尿病」という言葉には敏感だった。もちろん人によって色々なケースがあるにしても、美都江にとっては「糖尿病=デブの病気」という認識があったのだ。
 痩せよう。
 美都江は病院でもらった食事指導のパンフレットを握り締めて誓った。
 ところが、丸山は嬉々として美都江に食べさせ続けた。

「どうして? まだ病気になったわけじゃないんでしょ? だったらいいじゃん」

 そう言って丸山は美都江に食べることを勧める。丸山が家を訪れるたび、美都江の家には甘いものが増えていった。

「食べないの? なんで? どうして?」

 美都江が拒絶すると丸山はそう追及する。

「俺はみっちゃんが食べるところが見たいんだよ。いっぱい食べるみっちゃんが好き」

 それ即ち、食べないお前など好きではないということで。
 どんどん太っていく美都江の周りからは、友達と呼べる存在が消えていた。皆、人が変わったようになった美都江を気味悪がって離れていってしまったのだ。美都江には何も残っていなかった。あるのは溢れる贅肉だけ。
 ここで丸山を失ったら、自分には何も残らない。
 その焦燥が美都江をダイエットから遠ざけた。


 ついに美都江は自力でソファーから立ち上がれなくなった。
立ち上がるためには丸山に介助されなければならない。その日もソファーから立ち上がるために丸山の手を取った。

「わっ」

 突然体が宙に浮き、何が何だかわらかないうちに、美都江は床にごろんと転がってしまった。
 美都江は目を瞬いた。耳には丸山の笑い声が聞こえていた。

「え……丸山、くん……?」

 丸山が大笑いしていた。腹を抱えて、涙を浮かべて笑っていた。
 美都江はようやく何が起きたか理解した。立ち上がろうとした瞬間、丸山がわざと手を離したのだ。そのために美都江は支えを失って転倒した。
 幸いどこにもぶつけなかったけれど、ひとつ間違えれば怪我をしていた。また骨折していたかもしれない。そう思って美都江は蒼褪めるのに、丸山は相変わらず大笑いしている。その笑いの意味が美都江にはわからなかった。

「丸山くん? どうして笑っているの?」
「いやあ、おかしいよ。こんなの笑うしかないじゃん」
「おかしいって……私、転んだんだよ? 怪我するところだったんだよ?」
「うん。そうなったらもっと面白かったのに」
「え」

 美都江は混乱した。

「どういう意味? 丸山くん……」
「ホント傑作。滑稽だなぁ」

 丸山は涙を拭いながら美都江を見下ろした。起き上がれない彼女を爪先で小突き、肉の感触にまた笑い出す。

「俺はさ、女に食べさせて食べさせて、うんと太らせるのが好きなんだ。太り過ぎるとひとりで生活できなくなるだろ? 美都江みたいにさ。それを見て笑うのが最高に快感なんだ」

 丸山の笑みは嘲笑だった。
 美都江は信じられない思いで目を見開くことしかできなかった。

「でも、満足したからもういいよ。いいもの見せてくれてありがとう、みっちゃん」

 じゃあね。
 丸山が背を向ける。
 美都江は胃がすっぽりと抜け落ちたような感覚を味わっていた。ずっと幸福だと思っていたものが、本当は悪意の味だったのだと思い知る。信じられなかった。信じたくなかったけれど、丸山の後ろ姿が現実を突きつけていた。
 気が付けば、腹の底から怒りが湧き上がっていた。
 怒りは美都江を立ち上がらせた。玄関に向かう丸山の背に突撃する。彼を引きずり倒し、その巨体で押し潰した。

「うっ、ぐ……!」

 丸山が苦しそうに声を上げ、足をバタつかせて抵抗する。

「放せ、デブ……ッ! ぐうう……ッ!」
「行っちゃ嫌だよ、丸山くん」

 囁く美都江の目は何も映していなかった。
 馬乗りになり、丸山の脚を掴む。すね毛の生えた骨ばった脚。美都江は両手でその端を持つと、易々とへし折った。


 啜り泣きが聞こえる。
 ベッドの上では丸山が大の字になっていた。両手両足はベッドの足に縛り付けられている。。折れた右足には添え木がされているが、素人の応急手当なんて意味を為さない。痛々しく腫れあがり、患部はどす黒く変色している。

「ふん、ふふん」

 丸山の啜り泣きは美都江の鼻歌を聞いてぴたりと止んだ。辺りに漂うスパイスの匂いが、今夜はカレーだと告げている。間もなく部屋の明かりが点き、大皿を抱えた美都江が戸口に現れた。

「丸山くん、お待たせ」

 美都江は巨体を揺らしてベッドに近寄ると、彼の脇に腰掛けた。沈んだベッドが大きく軋む。

「お腹空いたでしょ? 今日は大好きなカレーだよ」

 美都江はカレーをぐちゃぐちゃに混ぜ、スプーンに掬って丸山の前に差し出した。

「あ」

 丸山が嫌々をして顔を背けたので、米粒が落ちて丸山のシャツを汚した。それを見て美都江が顔を顰める。

「ちょっと。洗濯するの、私なんだからね」

 美都江はもう一度カレーを掬う。

「駄々捏ねないで。次は左足だって言ったでしょ?」

 ぴしゃりと折れた右足を叩けば、丸山が情けない声を上げて身を捩る。
恐怖に見開かれた丸山の目の前にスプーンが迫り、無理矢理口に押し込まれた。熱々のカレーに噎せて吐き出しそうになるけれど、美都江は容赦なく次の一口を捻じ込む。

「美味しいねぇ、丸山くん」

 くちゃくちゃ。
 くちゃくちゃ。
 寝室には米をスプーンで掻き混ぜる音と、丸山の嗚咽、咀嚼音だけが響いていた。

「可哀想に。もう丸山くんはひとりじゃ生活できないね?」

 ずっとずっと、私が面倒を見てあげる。
 大好きだよ。
 美都江は幸せを噛み締めていた。


謝肉祭③ 「いっぱい食べる君が好き」 了


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