見出し画像

生きることについて考える。

昔読んだ本を、もう一度引っ張り出してページをめくる。以前とは違う感情が、湧いてくることがある。

坂口恭平さんの『独立国家のつくり方』を久しぶりに読んだ。正直なところ、以前読んだときには苦手意識を感じていた本だ。けれどなぜだか無性に読み返したくなって、読み始めたら、止まらなくなってしまった。気がつくと、泣きながら読んでいた。

本の内容については割愛する。その代わりに、坂口さんが本書で述べている、「生きる」とはどういうことかについて、引用させて頂こうと思う。(坂口恭平『独立国家のつくり方』講談社現代新書p167~168)


こんなことを考えるようになったのは、僕の躁鬱病のおかげである。躁期は、体も心も意識生活を行っているので、新しい経済をつくることだけに集中し、仕事も進んでいくのだが、鬱期は無意識生活になってしまうのだ。神経回路がすべてストップしてしまうから。景色は灰色になる。
でも、意識生活の記憶があるので、そのまま無意識生活を送ろうとすると合併症みたいな症状が出てくる。完全に乖離している。これが希死念慮につながる。二十四時間ずっと自殺のことを考えてしまうわけだ。相当きつい。でも、それでも「疑問」を見つけなければならないと必死で考える。この時、「考える」という行為は、死ねない理由を探す行為となる。生命をかけた状態となる。だからこそ、考えるという行為がとても切実な人間の態度であるということを知ることができる。
重力が強いところで訓練している孫悟空みたいな状態かもしれない。それでも見つけろ。納得するな。問いに結び付けろ、と。つまり、僕にとっては鬱期こそが一番の「創造」だ。そのような状態と目の前の社会や都市を結びつけて考える。それが僕の仕事の構造体である。一生治らないこの病気に感謝したい。むしろ、今、僕にとって躁鬱病は病気でもなんでもない。これはとても自然な体の動きであることがわかる。この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけないのだ。そこにはたくさんの無視が存在している。差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。
それが苦しくないわけないのだ。僕の症状は自然な精神であれば、当たり前のことだと気付いてきた。
だからこそ、行動に実行に実践に、結びつけなくてはいけないと決めることができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。死ぬかもしれないという可能性もある。だから新政府を立ち上げた。こんなことを社会に表明しちゃったら、多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。
つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。
生きるというのはそういうことだ。仕事で成功するとか、いい会社に入るとか、有名になるとか、資格をとるとか、出世するとか、お金を稼ぐとかではない。
「生きるとは死ねないこと」。死ねない環境をつくる。これが「生きる」ということだ。


思考を止めてはいないだろうか、問い続けることから目を背けようとしていないだろうか、自然に湧いてくる感情を無理やり抑え込もうとしてはいないだろうか。

「生きる」ことについて考えるのは猛烈にしんどい。だから、いかにそれを考えないようにするかということに目を向けようとする。でも本当に必要なのは、考えないようにすることではなく、考えた先にある喜びに目を向けることなのかもしれない。ならばとことん問い続けようじゃないか。わたしがわたしとして生きることについて。




最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。