愛と心配

Twitterでちょこちょこ言っているのだけれど、ハツカネズミのさくらちゃんのおしりに大きな腫瘍ができた。最近はその腫瘍を噛んでしまうことがあるため、ほとんどの時間だんなしかわたしがさくらちゃんを見ている。通称“さく当番”はわたしの担当は深夜から朝の4時までと日中で、だんなしは朝の4時から仕事に行くまで見ていてくれる。

噛んでしまうし、見ていて痛々しいし、なんとかしたくて、病院に行っていろいろなことを試した。そのうちの処置のひとつをやった日の夜、それが合わなかったようで、さくらちゃんの顔から表情がなくなった。

気付いていなかったけどそれまでのさくらちゃんはいつも笑っていたんだ。このとき初めて知った。

翌日に処置したものを全部取ってもらって、すぐにいつものさくらちゃんに戻った。怖い思いをさせてしまった。

さくらちゃんのことが心配で、どうにか噛まないように、痛くないようにと思っていた。さくらちゃんから表情がなくなった夜、今回の心配というものがどれだけ自分だけの感情で、エゴなのかということを思い知った。心配=愛情に繋がるとは限らない。ただ、わたしが安心したかっただけだ。さくらちゃんの傷口をこれ以上見たくなかったのは、紛れもなくわたし自身の感情だけだ。自分の安心に対して心を配るのが心配なのかもしれない。すべての心配が必ずしもそうとは限らないけれど、今回の場合はまさしくそうだった。

自分がなにか悩んだときに『わたしに話してよ』とか『どうして言ってくれないの?』と言われるのが嫌いで、『話したかったら話すし、話す相手は自分が選ぶよ』と思っていたのに、同じようなことをしてしまったのかなと思う。

心配って厄介な感情だ。それが愛だと過信してしまえば尚更。

さくらちゃんはそれから、やっぱり噛むし、足も少し不自由になってきた。しょっちゅうやってた大ジャンプも、ケージのふちで平均台するのも、もうできなくなった。

それでもニコニコして、プスプスおしゃべりしている。性格は前より少し甘えん坊になって、手に何回も登ってきたり、ほっぺを撫でられてまどろんでたりしている。さくちゃんの生きる時間が、さくちゃんにとってできるだけ楽しくなるようにしたい。