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【短編小説】無表情な私と無愛想な君とが繰り返すとある一日の記録


(1)――今日は、というか、今日も、だ。

 酷く嫌な夢をみた気がして、私は目を覚ました。
 心臓はまだ早鐘を打っていて息が上がっているし、十月の朝とは思えないほど滝のような汗をかいている。
 それなのに、夢の内容は微塵にも覚えていなかった。
 怖かった。
 その感情だけが色濃く残っていて、余計に後味が悪い。
「ひさぎー? いい加減に起きないと遅刻するよー?」
 階下から、私を呼ぶ母の声がした。
 この呼びかけで起きなければ、部屋に母が突入してくる。別に、部屋に見られて困るようなものは置いていないが、私はその声に反応し、いそいそと身支度を始めた。
 高校の制服に着替えて、階下のリビングに行く。
 父は既に出勤済で、母も出勤前の身支度を整えていた。ダイニングテーブルには、今ほど作られたのであろう、私のぶんの朝食が置かれている。今日は、トーストとサラダとヨーグルト。それとココアがある。今日は、というか、今日も、だ。二日連続で同じメニューとは、珍しい。
「おはよう」
「おはよう。お母さんもうすぐ出るから、戸締まりよろしくね」
「うん」
 席についてサラダから食べ始めつつ、母といつも通りのやり取りをする。
 両親は共働きで、私が小学校高学年になる頃には、両親のほうが先に家を出るようになっていた。寂しいとかいう感情は中学生の頃に散々拗らせ、置いてきた。これが狐井きつい家の普通で当たり前。無感情にそう捉えて日々を過ごすほうが賢明なのだ。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
 私の視線は点けっぱなしのテレビに向けつつ、横目で母を見送る。毎朝のことながら、慌ただしいものだ。
 テレビはちょうどニュースをやっている時間帯で、全国規模の大きな事件や、地方の悲惨な事故を報道していた。毎日毎日、どこかで見覚えのあるような、似たりよったりの事件ばかり起きているものだと、小さく嘆息する。
 朝食を終え、食器を洗い終わった頃、テレビではなにやらこの辺りに関するニュースを報道していたらしいが、残念ながら観ることは叶わなかった。有名人が来たなんて話は聞いてないし、事故か事件だろうが、全国ネットで報道されるほどのことなんて起きていただろうか。
 数秒ほど首を傾げて記憶を辿り、すぐに今はそんな場合じゃないと、思考を切り替える。
 学校に行かなければ。
 好きでもない学校に、行かなければ。
「いってきます」
 誰も居ない家に向かって出発の挨拶をし、私も家を出る。言われた通り、しっかり戸締まりをして。
 私は昔から、学校が好きじゃない。はっきり言って、嫌いだ。
 しかし私には学校に行かないという決断をする勇気はなく、こうして嫌々ながらに学校に通う日々である。
 別に、いじめられているわけではない。
 単に、浮いている上に孤立しているだけだ。
 理由はわかっている。
 私は感情が表に出ない、所謂無表情な人間なのだ。それ故、これまでの学校生活では散々「冷たい」だの「失礼」だの言われてきた。
 どうにも子どもの頃から、人の笑い声というものが苦手だった。みんながみんな一様に大きな声で、耳が痛くなる音を発することが信じられなかった。だから私は、誰かが笑う度に嫌な顔を浮かべ、それを強めに窘められた。笑い声が嫌いでも、嫌悪感を表情に出してはならない。そうやって我慢しているうち、周囲に合わせて微笑みを浮かべることさえできなくなり、今に至る。なにがあっても無表情な狐井ひさぎのできあがりだ。
「ねえ、さっきの狐井さんの態度見た? マジありえんし」
「先生も気を利かせてるってわかんないのかね」
「あれで表情ひとつ変わんないとか、もう機械なんじゃね?」
 だから、私を揶揄する声がどこからか聞こえてくるのは、日常茶飯事だった。
 当たり前に悪口を言われて。
 当たり前にそれを我慢して。
 歯の奥が、きりきりと痛む。
 私が欠陥品であることは、誰より私が一番理解している。
 だから、放っておいて欲しい。
 そんなことを考えながら授業を受け、それが終わったら即帰宅。
 それが、私の当たり前の日常だった。

(2)――そんな非現実的なことが起きてたまるか。

 いつも通り目を覚まし、身支度を整え、階下のリビングに行き、朝食を摂る。
 父は出勤済で、母も身支度を整え、出勤間近だ。
 私はテレビを見ながら母を見送る。
 テレビでは、相変わらず代わり映えしない内容が報道されていた。
 が。
 これはあまりにも昨日と内容が同じ過ぎやしないだろうか、なんて疑念が脳を過る。いや、考え過ぎか。きっとデジャブとかいうやつだろう。毎日飽きもせずに、似たような話題ばかり取り上げているテレビ番組が悪い。
 気にせず、今日も今日とて同じメニューだった朝食を食べ終えると、戸締まりをしっかりして、私は学校へ向かった。
 しかし、時間割を勘違いしていて、ものの見事に大半の教科書を忘れてしまっていた。おかしいな、変更はないと思っていたのだけれど。これじゃあまるで、昨日の時間割と同じではないか。
 果たして、そんな偶然があり得るのか?
 首を傾げた私に、しかし、遂に決定打が突きつけられる。
「ねえ、さっきの狐井さんの態度見た? マジありえんし」
「先生も気を利かせてるってわかんないのかね」
「あれで表情ひとつ変わんないとか、もう機械なんじゃね?」
 聞こえてくる悪口が昨日と全く同一なんてことは、流石に有り得ないだろう。彼ら彼女らの語彙は無駄に豊富で、昨日と一言一句同じことを言うなんて娯楽に欠ける真似は、しそうにない。
 まさか。
 まさか、そんな。
 そんなことが、起こり得るのだろうか。
 吐き気に似た感情を抱えながら、私は一日の授業を全て乗り切り、帰路に着いた。
 もしかしたら、昨日と同じ一日を繰り返しているなんて、そんな非現実的なことが起きてたまるか。そんなのはフィクションの中でだけ起こる現象だ。
 気の所為。
 全部、気の所為だ。
 そうやって自分を説得し、その日、私は早めに床についたのだった。

(3)――こういうのを、正常性バイアスというのだったか。

 目が覚めて、身支度を整え、リビングに行く。
 父は出勤済で、母も身支度を整え、出勤間近。
 私はテレビを見ながら母を見送る。
 朝食のメニューはずっと同じ。
 テレビでは、やはり見覚えしかない内容ばかりが放送されていた。
 学校へ来ても、時間割は昨日と同じ。
 悪口も一言一句同じ。
 これは、どちらがおかしいのだろう。
 疑問も抱かず昨日と同じ今日を過ごす周囲の人間か。
 混乱しつつも昨日と同じ今日を過ごそうとする私か。
 こういうのを、正常性バイアスというのだったか。つまりどちらかが、この繰り返される「今日」を正常の範囲であると歪んで認知していることになるのだが。
 間違いなく、それが働いているのは私なのだろうとは、思う。そうでなければ、社会はもっと混乱しているはずだからだ。
 あくまで、繰り返しの「今日」を認識しているのは、私一人だけ。
 何故?
 理由もなくこんなことに巻き込まれるわけがない、と思いたい。しかし、もしもこれが上位存在による無作為な選出であれば、その前提も瓦解する。いやいや、上位存在ってなんだ。駄目だ、混乱してしまっていて、頭がまともに動いてくれない。
 気がおかしくなりそうだ。

(4)――私だけが「今日」に閉じ込められてしまったのだ。

 目が覚めて、身支度を整えて、リビングに行く。
 母を見送りつつ朝食を食べ、戸締まりをして、家を出る。
 だけど行き先は学校ではない。あそこに居ても、気が狂いそうになるだけだ。
 なにか昨日の「今日」とは違うものに触れたくて、私は町に出た。
 駅前の広場では、大勢の人間がなにごともないように過ごしていて、やはりこの繰り返しは私にしか起きていないのだと、再認識させられる。私だけが「今日」に閉じ込められてしまったのだ。
 視界がぐにゃりと歪んで、瞳に涙が溜まっていることに気がついた。
 流石の私も、対処しきれない事態に遭遇すると涙が出るらしい。
 ここで泣いたら、きっと通りすがりの優しい人が慰めてくれるだろう。だけどそれは、明日の「今日」でも同じことだ。それを思うとあまりにも虚しくなって、私は駅のトイレに駆け込み、一人で泣いた。
 夕方、家に帰ると両親から学校をサボったことについて怒られたが、そんなことはもう私の心には響かなくなっていた。

(5)――「昨日の『今日』、学校サボって駅前広場に居たでしょ」

 どこに居ても、私だけが異分子で、私だけが世界から疎外されている。まるで見えない膜が、世界と私の間に一枚挟まっているような感覚だ。
 やはり学校へ行く気にはなれなくて、「今日」は町外れの河川敷へ来ていた。
 高校生が昼間っから学生服姿でこんな場所に居ると、否が応でも視線を感じる。しかし、なにかやんごとなき理由でもあったのだろうと察してくれたのか、どこかへ連絡されることはなかったようで、私は心ゆくまで河川敷で過ごすことができた。
 誰にも邪魔されない静かな場所で、私はゆっくりと思考を巡らす。
 どうしてこんな状況に陥ってしまったのか。
 昨日の「今日」、私はこの状況を『今日に閉じ込められた』と表現したが、閉じ込められるほどの罪でも犯したというのだろうか。
 罪。
 であれば、これは罰なのだろうか。
 どうやったらこの牢獄から脱出できるのだろう。
 わからない。
 なにもわからない。
 それが、途轍もなく怖い。
「――やっと見つけた」
 と。
 頭上から知らない声が降ってきて、私は反射的に顔を上げた。
 そこには、同じクラスの男子が立っているではないか。
 名前は確か、そう、猫塚ねこづか紫蘭しらん君。
 四月のクラス替え当初、女子たちが彼を取り囲んで騒いでいたのを覚えている。猫塚君は所謂イケメンというやつで、人の美醜に疎い私でさえ、顔が整っているとわかるほどだ。
 しかし彼の人気は、一ヶ月と続かなかった。クラスの女子たち曰く、「愛想がない」というのが理由だそうだ。なにを言っても無愛想な態度で返され、五月の連休が明ける頃には「観賞用」と言われ、遠巻きにされていた。
 ある意味、周囲から浮いて孤立しているという点では私と共通点を持っているが、今日まで話したことは一度もない。
 そんな彼が、聞き間違いでなければ、私を探していたというのだ。
 学校をサボったことでなにか連絡事項があったのであれば、昨日の「今日」にでも自宅に来ているはずだ。しかし昨日の「今日」はなにもなかった。猫塚君は「今日」初めて河川敷で私を見つけたのだ。
 どのイレギュラーが現状を引き起こしたのか考えあぐねているうち、猫塚君は私の隣に座り、
「昨日の『今日』、学校サボって駅前広場に居たでしょ」
と、確信めいた調子でそう言った。
「え? うん、そうだけど。……うん? え?」
 先の猫塚君の言葉に矛盾を感じて、私の口からは大量の疑問符が飛び出した。
 他の人にとっては、昨日の「今日」もなにもない。同じことを繰り返すだけの「今日」という一日でしかないはずだ。しかし今、猫塚君は昨日の「今日」のことに言及した。
 彼は知っているのだ。
「もしかして、猫塚君も、繰り返してるの……?」
 恐る恐る、尋ねてみる。
 一見すれば頭のおかしな質問だ。
 しかし、訊かないわけにはいかなかった。
「うん」
 果たして、猫塚君はあっさりと肯定した。
「ど、どのくらい?」
「うーん、一ヶ月か二ヶ月か……もしかしたら半年かもしれない。もう数えるのやめちゃったんだよね」
 彼の回答にひゅっと息を呑んだ私とは裏腹に、猫塚君は嬉しそうに微笑んで、言う。
「昨日の『今日』、駅前広場で泣きそうになってる人は初めて見てさ。すぐに俺と同じなんだって思ったんだ。本当はすぐ声をかけようと思ったんだけど、狐井さん、走ってどこかへ行っちゃったし。『今日』は同じ場所に来てなかったから、結構探し回ったんだよね。いやあ、見つかって良かったよ」
「なんで私を探してたの?」
「え? だって、一人でこんな状況下に居たらおかしくならない? それに、俺もそろそろ話し相手が欲しかったしさ」
 確かに、あのまま一人で居たら、状況が解決するより先に、私の気が触れていたかもわからない。だから猫塚君の登場は、それこそ地獄に垂れた蜘蛛の糸のように有り難い限りなのだけれど。
「猫塚君は、どうして『今日』を繰り返すことになったか、わかる?」
「それは……わかんない」
 しかし猫塚君は、救世主ではなかったようだ。
 あくまで、同じ状況に巻き込まれた被害者同士というわけだ。
「あのさ、猫塚君」
 この繰り返しの先輩になる猫塚君に、訊きたいことはたくさんあった。まずどれから訊こうか、頭の中で整理がついていないうちに、口が先へ先へと動いてしまう。
 しかし、それに待ったをかけたのは、猫塚君だった。
「ストップ、ストップ。気持ちはわかるよ。でもさ、もうすぐ日も暮れるから、続きは明日にしようよ」
 そう言われて、改めて私は周囲を見回した。
 さっきまであったはずの透き通るような青空が、いつの間にか、濃い橙色に変わっているではないか。考えごとに没頭し過ぎた。しかし、それだけ打破しなければならない現実に直面しているのだから、仕方がない。
「……わかった」
 どうせ明日も「今日」なのだから、帰りが遅れたところで構わないとも思ったけれど。それはあくまで、私の側の事情だ。猫塚君の家は門限に厳しいとか、そういう事情があるのかもしれない。
 そう思って、私は素直に頷いた。
「明日の『今日』、ここで待ち合わせよう。午前中には来るようにするよ」
「わかった。それじゃあ、また明日ね」
 今日なんだか、明日なんだか。
 こんなにわけのわからない別れの挨拶をしたのは、生まれて初めてだった。

(6)――「それは……褒めてる? 貶してる?」

 朝になり、目が覚めて、母よりも先に家を出た。
 私が早く来たからって、猫塚君もそうだとは限らないのに。
 それでも、この繰り返しの手がかりとなる彼の話を、一分一秒でも早く聞きたくて、居ても立っても居られなかったのだ。
 果たして。
 息を切らして到着した河川敷に、猫塚君の姿は、既にあった。
「おはよう。早いね」
 確か昨日の別れ際、「午前中には来れるようにする」というようなことを言っていたから、もっと日が高くなってから来るものだと思っていたのだ。
「おはよう。早いのは、狐井さんもでしょ」
「私は、いろいろと訊きたいことがあったから、猫塚君が来るまでに頭の中を整理しておこうと思って……」
 言いながら、私も猫塚君の隣に座る。
 遠く背後の遊歩道には、散歩や通勤通学の人が歩いている気配があるが、昨日と同じで、どこかに連絡されるようなことはないだろう。そういう心配がないとわかっているのは、この繰り返しで唯一の良いところかもしれない。
「ああ、まだ混乱してる感じ? まとまるまで待ってようか?」
「ううん、せっかく早くに集まれたんだし、猫塚君さえ良ければ、思いついた順にいろいろ訊いても良い?」
「良いよ。時間はたっぷりあるんだ。今日で終わらなければ明日の『今日』もある」
 そう話す猫塚君は、昨日同様、上機嫌に見える。
 学校では「無愛想な観賞用イケメン」なんて言われている猫塚君と、本当に同一人物なのか、若干疑わしいところはある。がしかし、突如として一日に閉じ込められた状況下で、同じ状況の人間に出会えたのだから、上機嫌になるのも頷けるというものだ。私だって、なんだか昨日から頬の筋肉が引き攣るような感覚がある。
「じゃあまず……、私たち以外に、『今日』に閉じ込められている人は居るの?」
「居るよ。いや、居たって言ったほうが正確か」
そう言って、猫塚君は右手の指を二本立てる。
「俺の知る限りは、あと二人、『今日』に閉じ込められていた人が居た」
「その人たち、今はどうしているの……?」
 厳密に過去形で言い直した意図を読み取ろうと、私はごくりと唾を飲んで言った。
「わからない。その人たちとも、こういう交流会みたいな場を設けてたんだけど、ある日、突然来なくなったんだ。たまには来ない日もあるよなって思ったけど、結局俺はその日以来、あの人たちを見ていない」
「……『今日』から脱出したのかな」
「そうかもしれないし、消滅したのかもしれないし。どうなったのかはわからない。交流会で、脱出できる手立てが見つかったなんて話は、一切してなかったけどね。俺にだけそれを教えないような人たちとは思えないけど……。どちらにせよ、『今日』に閉じ込められたままの俺らには、あの人たちが脱出したのか消滅したのか、観測する術がない」
「なるほど……」
 居なくなった二人と猫塚君との間で、どれだけの信頼関係を築けていたのかはわからない。けれど、猫塚君の言を信じるのであれば、そんな無作法な真似はしなさそうだ。
 であれば、意図せず『今日』から居なくなったのだと考えるのが順当だろう。
 それが脱出なのか消滅なのか、結局わからないという点が、ただただ恐怖を掻き立てる。ぞわりと背筋が冷えたような気がして、堪らず身体が強張った。
「こんなこと言うと、不愉快に思われるかもだけど」
 不意に、猫塚君は言う。
「狐井さんって、普通に表情筋動くんだね」
「なっ……!」
 それはこちらの台詞、というやつだった。
 今の猫塚君は、無愛想のぶの字もないではないか。
「いやさ、クラスで狐井さんがいろいろ言われてるのは聞こえてきてたし、実際、狐井さんって本当に表情が動かないからさ。相当心が強い人なんだと思ってたんだよ。だけど、こうして話してみると、うん、なんていうか、普通だよね」
「それは……褒めてる? 貶してる?」
「褒めてるんだよ」
 肩を竦め、猫塚君は言う。
「俺さ、人に囲まれると緊張して、ぶっきらぼうな態度を取っちゃうんだ。でも狐井さんは、どんな人にも同じ態度で話せるだろ? あれすごいなって、密かに思ってたんだよ」
「それは……」
 敢えて感情を均して平坦にしようと努めていただけだ。
 猫塚君は突然大きな声を出したりしないからだろうか、私としても普段からある嫌な緊張感のようなものはない。
「別に、私は強くもなんともないよ。私の反応は人を不快にさせるみたいだから、感情を表に出さないようにしてるだけ。今は、なんていうか、混乱してて、ブレーキが効いてないっていうか……」
「それって、普段は常にブレーキをかけ続けてるってこと? 疲れない?」
 どうだろう。もう長いことこの状態が続いているから、そういう感覚は失って久しいのかもしれない。
 これが私にとっての当たり前だから。
「ブレーキをべた踏みし続けてると、いざってときにブレーキが効かなくなりそうじゃない?」
 猫塚君は重ねて問う。
「どうせ『今日』に閉じ込められて、やることもないしさ。狐井さん、俺と練習しようよ。狐井さんは、感情を表に出す練習。俺は、他人と話しててもぶっきらぼうにならない練習。どう?」
「構わないけど……」
 楽しげに提案してきた猫塚君を無碍にしたくなくて、私は曖昧に頷く。
「あくまで、『今日』から脱出するのが第一目標だからね。練習は、そのついでってことで良い?」
「うん」
 とはいえ、猫塚君の提案は理に適っていたのかもしれない。
 どうやって「今日」から抜け出すかばかりを考えていた結果、私は気がおかしくなりそうだったのだから。適度に気を紛らわせることも、今は必要なことなのだろう。

(7)――「人間って難しいねえ……」

 それから、猫塚君とは毎日会うようになった。
 基本的には、午前中に河川敷で待ち合わせて、雑談に興じる。
 私としては「今日」から脱出すべく、あれこれ試してみたいこともあったのだが、その全ては既に、猫塚君と居なくなった二人とで検証済だったのである。
 たとえば、寝ずに日付を跨ぐとどうなるのか。
 たとえば、日付が変わる瞬間に居る場所は関係あるのか。
 たとえば、海外に向かうとどうなるのか。
 結果、どこに居ようと、徹夜をしようとしても、日付が変わる頃には強烈な眠気がやってきて、気がつくと「今日」のスタート地点に戻されているということが実証されていたのだった。
 こうなると、確かにやることがない。
 次点の目標としていたはずの練習とやらが、最近はメインになっていた。
 そうはいっても、なにか特別なことをしているわけではない。私も猫塚君も、基本的には好きなように喋っているだけだ。
 お互いの悪癖を治すには、とにかくいろんな人と喋ってみるしかない。そう考えて、飛び込みでも参加可能なイベントにあれこれ参加しりたりしてみた。
 だが、十数年の人生で癖ついたものは、そう簡単に解けるわけではない。
 私は、どうしても反射で感情に蓋をしてしまう。いや、その癖が発動していることに気づき、蓋を開けようと試みているぶん、改善に向かってはいるのだろうけれど。結局、私は人の笑い声が不快で、どんなイベントに参加しようと、不快感から顔をしかめ、周囲から顰蹙を買うだけだった。
 そうだ、だから、私は無表情になることで、自分を守ろうとしたのだ。
 猫塚君は良い。
 徐々に対人における緊張感が薄まり、今は、どこへ行っても愛想の良いイケメンになれたのだから。
「人間ってさ、完璧じゃなくても良いはずだと思わない?」
 その日の夕方、いつもの河川敷でジュースを飲みながら、猫塚君は言う。
「一長一短、十人十色……あとは、なんだろう。とにかく、人にはそれぞれの良いところと悪いところがあって、全部のパラメーターが一定値に達していないと人間扱いされないのは、違うとは思うんだよ」
「だけど、明らかな欠陥は、排除されて然るべきじゃない?」
「そんなことしてたら、世界から人間は居なくなっちゃうよ。その果てにあるのは、ロボットだけの世界だ」
「それでも、実際に世間は完璧な人間を求めてるじゃない。私みたいな欠陥品は、変われない限りは、いつまで経っても邪魔者だよ」
「人間って難しいねえ……」
 考えながら話しているらしい猫塚君は、ええと、と言葉を探しながら、続ける。
「俺が言いたかったのは、練習を通して思ったけど、狐井さんが変わる必要はあんまりないのかもしれないってこと。要は、狐井さんの良いところが相手に伝われば、問題ないような気もするんだよね。狐井さんって、言葉遣い綺麗だし、いろいろ考えて行動してくれてるし。そういうのが伝われば、学校でもあれこれ言われなくなると思うんだけど。うーん、難しいね」
 学校。
 そう言われて、心臓がぎゅうっと痛くなった。
 そういえば、こうして猫塚君と会うようになってから、学校へ行っていない。
 いつか「今日」から脱出するんだと意気込んでいたけれど、脱出した先にあるのは、あの息が詰まるような日常だ。今となっては、ずっと「今日」が続けば良いのにとさえ思っている自分が居て、それにまた心臓を抉られる。
 最初は、これは罰なんだと思っていたくせして。
 次第に、それがぬるま湯のように思えてきている。
 気が触れないようにしていたつもりだけれど、その実、私はもうおかしくなってきているのかもしれない。こんなの、現実逃避の極地ではないか。
 可能であれば、まだこのぬるま湯に浸かっていたい。
 だって私は、「今日」に居残り猫塚君と会話している限りは、欠陥品ではないのだから。
 だから、未だに「今日」から脱出したあとのことを考えている猫塚君は、先へ先へと前進する車のようで、徒歩の私は疲弊してしまいそうになる。
「猫塚君は良いよね、苦手を克服できたんだから」
 それは、うっかり零れた意地悪な言葉だった。
 違う、こういうことを言いたかったんじゃない。心の底では思っていたかもしれないことだけれど、わざわざ言葉にして伝えたかったことではない。
「……俺は、『今日』に閉じ込められたからこそ――いや、狐井さんと会えたからこそ、克服できたと思うけどね」
「そんなはずないよ、適当なこと言わないで」
 ああ駄目だ、こんなところで、感情が暴走してしまうなんて。
 今こそ、感情に蓋をしなければならないのに。
「……」
 猫塚君は、小さく息を吐いて、それから、話題を変えるように、声音を意図して明るくする。
「そうだ、明日は久々に、ボランティアに参加しようよ。なんかこう、思いっきり身体が動かせる系のやつ」
「……そうだね」
 必死に感情をせき止めて、私はどうにかそれだけ返した。
「それじゃあ、また明日の『今日』、ここに集合ね」
「うん。また明日の『今日』ね」
 すっかり板についた別れの言葉を交わし、その日は解散となった。

(8)――ごめんなさい。

 朝一番に、猫塚君に謝ろうと思った。
 昨日の喧嘩じみた口論は、どうしたって私が悪い。猫塚君なりにいろいろと考えて言ってくれたことを否定するだけの権利なんて、私にはないというのに。
 羨ましくて、妬ましくて。
 つい口から出たのが、あの言葉だったのだ。
 そう、私は無表情にかまかけて、言葉にしなさ過ぎだったのだ。
 人付き合いをしていく中で、表情をコントロールする力は必要だ。その結果が無表情になってしまったって、言葉でいくらでも伝えようはある。それさえ怠ってしまったのが、私なのだ。昨日の「今日」、猫塚君が伝えようとしていたのは、そういうことなんじゃないだろうか。
 ごめんなさい。
 この六文字を伝えるだけなのに、私の心臓はぎゅうぎゅうと痛みを訴えるほど緊張していた。
 しかし。
 いつもなら、遅くとも午前中に来る猫塚君は。
 この日、とうとう河川敷に来ることはなかった。

(9)――嫌な予感がした。

 それから三日分の「今日」待ち続けたが、猫塚君が河川敷に姿を見せることはなかった。
 私が軽率に吐いてしまった言葉で、どれだけ彼を傷つけてしまったのだろう。
 不安と罪悪感で喉を締めつけられているような気分になる。しかし、彼は私の言葉によって、もっと不快な思いをしたはずなんだ。
 謝らなくては。
 そう決意し、私は猫塚君の家に向かった。
 猫塚君の家には、どれくらいか前の「今日」に行ったことがある。おすすめのレトロゲームを教えてもらって、一緒にそれで遊んだのだ。
 少し迷子になりながらも、辿り着いた猫塚家。
 震える指先でインターホンを押し、しばらく待つ。
 しかし、家の中から物音ひとつしない。
 もう一度、ベルを鳴らす。
 やはり、反応はない。
 居留守されていたら、もうどうしようもないのだけれど。結構な時間を共に過ごしてきたからこそ、猫塚君はこういう状況でも、居留守だけはしないとわかっていた。だから、わかる。この家は無人なのだ。誰も居ない。
 嫌な予感がした。
 最悪の予想が、脳裏を過る。
 いつかの日に聞いた――本当に遠い過去のように思える――猫塚君の言葉が思い出される。
 ――その人たちとも、こういう交流会みたいな場を設けてたんだけど、ある日、突然来なくなったんだ。
 もしかしなくとも、猫塚君もそうなったのではないだろうか。
 脱出なのか、消滅なのかは、結局わからないけれど。
 とにかく、猫塚君はこの繰り返しの「今日」から居なくなった。
 他に、仲間は居ない。
 私だけ。
 私一人だけが、「今日」を繰り返す。
 猫塚君は、一人だけの「今日」を半年は繰り返したと言っていたか。果たして私は半年間も孤独に耐えられるだろうか。次の仲間が現れるかどうかもわからないのに。
 一人は嫌だ。
 寂しい。
 怖い。

(10)――怖いから、怖いから、怖いから。

 猫塚君が「今日」から消えてからも、私はしばらくの間、河川敷に通っていた。
 もしかしたら、いつもと変わらない様子で、猫塚君がやってくるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、夕暮れどきまで待っても、猫塚君は現れない。
 そんな「今日」が十回を超えたあたりで、私は外に出ることをやめた。
 猫塚君が居たから、同じことが繰り返される「今日」を過ごしてこられたのだ。どこに行っても毎日同じことをしている気味の悪い外に、もう出られる気がしない。
 私は毎日、仮病を使って学校を休み、布団の中に包まって「今日」が終わるのを待つ。
 怖いから、目を逸らす。
 怖いから、耳を塞ぐ。
 怖いから、全てから逃げる。
 怖いから、怖いから、怖いから。
 しかし、一体どうしてこんなに恐怖を感じるのだろう。
 別段、私は寂しがり屋ではない。家庭のことは既に決着が着いているし、そうでなければ、学校で孤立していることに絶望して、不登校になっていたところだ。一人で居るのは嫌いじゃない。苦痛でもない。そのはずだ。
 一人が怖いのは……怖いのは……。
「……お腹空いた」
 思考を巡らせているうち、腹の虫が限界を迎え、轟音を鳴らしてきた。
 私はいそいそと布団から這い出て、階下のリビングに向かう。
 頭が痛いから学校を休むと母に伝えたところ、超特急で身体に優しそうな昼食を作り置いてくれたものがあるはずだ。昨日の「今日」も、一昨日の「今日」もそうだった。
 いつもの習慣で、テレビを点けて、それを観ながら食事をする。
 お昼のワイドショーでは、通り魔について報道されていた。
 既に二人の被害者が出ているが、命に別状はなし。しかし犯人は捕まっておらず、現在も逃走中。犯行場所はなんと、この辺りであるらしい。そういえば、遠い昔となった昨日、学校で注意喚起がなされていたっけ。
 危険だから、一人で下校しないように――と。
 それを思い出したところで、ぞわりと、冷たい手で首に触れられたように鳥肌が立つ。
 なんだか、妙な気分だ。
 今まで、こういったニュースを観たところで、肌が粟立つほどの恐怖を感じたことはないというのに。いくら近所だからといっても、こんなに怖いものだろうか。
 何故だろう。
 これでは、まるで――
「この通り魔に、一度遭遇したことがあるみたいじゃんか」
 ぽろりと零れるように呟いて、それがいやに現実味があるように感じられて、ぞっとした。
 まさか。
 そんなことが、有り得るのだろうか。
「落ち着け……落ち着け……」
 この場に通り魔は居ない。家の中は安全だ。
 だから落ち着け、と自身に言い聞かせ、深呼吸をする。
 鳥肌が収まったところで、そういえば、本来の「今日」はどう過ごしていたのだったかと、ふと気になった。
 確か、悪夢をみて飛び起きたんだったか。
 いや違う。
 あの日既に、日々の節々にデジャブはあった。あの日は、二回目の「今日」だったのだ。
 夢。
 怖い夢。
 記憶の彼方で霞がかった夢を、必死に思い出そうとする。
 そうだ、私は夢で、追いかけられていた。
 急にこちらを向いて、私を標的と定めた途端に追いかけてきた『なにか』から。
 怖くて、汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら走って。
 途中で、猫塚君と遭遇して。
 彼は咄嗟に私と『なにか』の間に入ってくれた。
 けれど猫塚君は腹部を刺されて倒れ、次いで私も――
「――……」
 震える身体に鞭打つように、深呼吸をした。
 あれ以来、怖い夢はみていない。あれは一度きりだった。
 本来の「今日」、滝のような汗が出るほどの恐怖を味わったということなのだろうか。
 それならば、それ以降の「今日」は、私の『死にたくない』という未練が見させている幻覚なのだろうか。
 或いは、欠陥品がそんなことを思った罰なのかもしれない。
 果たして、恐らくは繰り返しの真実に辿り着いてしまった私は、無事に明日を迎えられるのだろうか。保証はどこにもない。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 だけど。

(11)――「……今日は、何月何日?」

 目を覚ますと、私の身体は知らない場所にあった。
 少なくとも、家の私の部屋ではない。
 真っ白い天井、ベッドをぐるりと囲むクリーム色のカーテン、その外側から聞こえる慌ただしい人々の声。
 ゆっくりと自分の身体に目を遣ると、たくさんの管に繋がれていて。
 そこでようやく、ここは病院なのだと理解した。
「ひさぎ! ひさぎ、目が覚めたんだなっ?!」
 父の声がして、そちらを見る。どうやら、ベッドの近くに座っていたらしい。
 父はほんの数秒で大雨みたいな涙を零し、私の手を握った。そうして私の存在を確かめるように触れつつ、良かった、と繰り返す。
 こんな一日の始まりは、始めてだ。
 もしかして、繰り返される一日から脱出できたのだろうか。
 突然降って湧いた希望に、喉が熱くなったような気がした。
「……お父さん」
 私は蚊の鳴くような声しか出せなかったが、父はしっかり聞き取り、耳を近づけてくれた。
「……今日は、何月何日?」
 そうして必死に尋ねた私に、父は、私の記憶にある日付から一週間後の日付を口にしたのだった。

(12)――「ね、猫塚君……」

 どうやら私は、一週間ほど昏睡状態にあったらしい。
 そうなった原因は、例の通り魔の被害に遭ったことにあるそうだ。
 私はどこか他人事のように被害状況を聞いていたが、それも仕方がないことである。なにせ、私の記憶は通り魔と遭遇し接近してきたところまでで止まっている。いや、腹部に生々しい傷跡があるのだから、確かに被害には遭っているのだけれど。
 辛うじて覚えていたことといえば、偶然その場に居合わせ、私を庇ってくれたクラスメイトが居るということくらいだった。
 クラスメイト。
 緊張すると無愛想になってしまう、猫塚君。
 彼も、この病院に居るのだろうか。
 すぐにでも彼を探しに行きたかったが、如何せん、一週間も昏睡状態にあったのだ。そうでなくとも、通り魔に腹部を刺されていて、身体も自由に動かせない。目が覚めてからの私は、されるがまま検査に次ぐ検査に連れ回された。
 一通りの検査が終わり落ち着いたのは、夕方頃。
 父と、連絡を受けてやって来ていた母は、一旦家に帰ったこともあり、私は一人病室でのんびりとしていた。
「久しぶり。それとも、おかえりって言ったほうが良いのかな」
 と。
 声がして、病室の出入り口を見ると、猫塚君が居た。
 私と同じ病衣を着た彼は、カラカラと点滴スタンドを押して病室に入ってきたかと思うと、近くにあったパイプ椅子に腰を掛ける。
「ともあれ、あの日から脱出できたんだから、まずはおめでとうなのかな」
「ね、猫塚君……」
 震える声で呼びかけた私に、猫塚君は優しく、うん、と頷いて、言う。
「俺はね、一昨日に目が覚めたんだ。怪我のほうも、言うほど大事じゃなかったみたい。たぶん、だから狐井さんより早く目が覚めたんだろうね」
「訊きたいことも、言いたいことも、いっぱいある。あるんだよ、猫塚君」
「はは、最初に会ったときみたいなこと言うね」
 からかうような物言いに、私はちょっとだけ頬を膨らませた。が、違う、そういう話がしたいんじゃない。
「猫塚君も覚えてるんだよね? 繰り返してた一日のこと」
「うん。全部覚えてるよ。毎日河川敷に集合してたことも、お互いの悪癖を治そうといろんなことに挑戦したことも、全部覚えてる」
 それなら、私から言うべきことがある。
 小さく深呼吸をしてから、私はすっと猫塚君を見据えて、言う。
「猫塚君、酷いこと言って、ごめんなさい」
 まだ身体が上手く動かない中で、どうにか可能な限り頭を下げた。
「……うん、良いよ。許すっていうか、謝罪を受け入れるっていうか。はは、『ごめんなさい』って言われたときに返す定型文がないの、地味に困るね」
 猫塚君はそう言って、困ったように笑う。
「あれが狐井さんの本心じゃないことくらい、わかってるから大丈夫。言いたくない言葉が口をついて出ちゃうことって、俺もたまにあることだし。気にしないで良いよ」
それよりさ、と猫塚君は、話題を変えることにしたようだ。
「狐井さん、具合はどう?」
「……うん、平気」
「お互い、致命傷にならなくて良かったよ。ああ、犯人は俺らを刺した直後に捕まったらしいよ。俺がスマホで緊急通報できたってのが良かったみたい。警察の人から褒められちゃった」
「刺されたあとも、意識があったの?」
「ちょっとだけね。でも、通報したところで俺も気を失って、気づいたらあの日に閉じ込められてた。だけど、通り魔に遭遇したときの記憶はごっそり抜け落ちてたな。それは狐井さんも同じなんだよね?」
「うん」
 不思議なもので、もっと目を凝らしていればすぐにでも通り魔に繋がる情報は手に入れられたはずなのに、私も猫塚君も、それに長いこと気づけなかった。
 怖いことから無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
「あの日……って言っても、ややこしいか。ええと、河川敷でちょっとした喧嘩になった日の夜に、考えてたんだよ。どうして俺は、一番最初に駅前広場で泣いてる狐井さんを放っておけなかったのかって」
「それは、同じ境遇の人を見つけたからなんじゃないの?」
「それもあるけど。なんていうのかな、既視感みたいなのがあったんだ。また泣いてる。そう思ったのを覚えてる。だけど、俺はその日まで狐井さんが泣いてる姿なんて見たことないはずなのに、どうしてだろうって思って記憶を辿っていったら、通り魔と遭遇した日のことを思い出したってわけ」
「思い出せたから、脱出できた?」
「そうかもしれない」
 猫塚君は思案顔で頷く。
「思うに、あそこは生と死の間みたいなところだったんじゃないかな。ほら、前に言った、同じ境遇の二人。あの人たちも、同じ通り魔の被害者だったんだ」
「なるほど……」
 頷くと同時に、ぞっとする。
 仮に、あの一日が猫塚君の言うような場所だったとして。
 私はずっとなにかに恐怖を感じ、縮こまっているだけだった。けれど、もしも私があの場で『死にたい』なんて願っていたら、どうなっていただろうか。
 生と死の境目。
 運命の境界線。
 生きたい、なんて強く前向きな感情は、私にはなかった。
 私の中にあったのは、ただひとつ、もっと単純なものだ。
「……また猫塚君に会えて、嬉しいよ」
 零れるように口から出た言葉だけれど、これは本音だった。
 これがあったから、私はあの日から脱出できたし、生き続けているのだと思う。
「俺も、めっちゃ嬉しい」
 そう言って、猫塚君はくしゃりと笑ってみせた。
 それにつられて、私は表情筋が悲鳴を上げるのも無視して、彼と同じように笑った。



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