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【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #40

第5話 呻く雄風――(10)

 私立境山高校が建てられてから、どれくらいの年月が経った頃だろうか。
 気がつけば校舎は増え、多発する心霊現象の所為で、校内の複雑化が進んでいた。
 その日も俺は、生徒の賑やかな声に耳を傾けていた。
 放課後に入り、部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。
 しかし、その声の中に、聞き慣れない声が混じっていた。
「どこ? どこにいるの?」
 それは、幼い女の子が泣きながらに発した声だった。
 迷子だろうか。
 慌てて気配を探る。
 すると、声の主である女の子は、学校からそう遠くない茂みの中で、なにかを探すように右往左往しているではないか。
 俺は風を操り、それとなく帰り道を示すが、女の子は風に導かれるどころか、風に向かって歩を進める。
「ねえ、声、聞こえたよ。わたしは気づいたよ。わたしが呼んであげる。だから、出てきてよ」
 女の子は泣きじゃくりながら誰かを探しているが、一向に迎えは来ない。
 日は傾き、じきに逢魔ヶ刻に差し掛かる。
 いくら人間の手が入り、道が整備されているとはいえ、ここは山だ。野生動物に遭遇してしまう危険性はもちろんのこと、なにか〈よくないもの〉に出遭ってしまう可能性だって考えられる。
 姿を人前に現すのは力が要るから極力控えたいところだが、ここで人が死ぬのは本意ではない。
 少しの逡巡の末、俺はその子の前に姿を現すことにした。
「もうこんばんはの時間だよ。君、誰か探してるのかな?」
 女の子の目の前に現れ、そう声を掛けると、彼女はぱっと顔を上げて俺を見た。
 人間に認識してもらえるかどうかはぎりぎりの賭けだったが、どうやらこの子は視える側の人間らしい。これなら、少し力を抜いても大丈夫だろう。
 余分に張っていた肩の力を抜き、女の子と目の高さを合わせる為にしゃがむ。すると、女の子の涙はぴたりと止まったが、何度も瞬きをして、俺を凝視してきたではないか。
 不審に思われるようなことはなにもしていないはずだが、どうしてだろう。
 そう疑問に思ったのも束の間、女の子が俺の着物の袖を掴んだところで、ようやく合点がいった。
 恐らく、この子にとって着物を着ている人が珍しくて、だからきょとんとしていたのだ。
 今からでも現代人に馴染みのある洋服姿に変えるか、いや、もうこの子に姿を見られている以上、いきなり着ている服が変わったら、それこそ不審だし、なにより、驚いて泣いてしまうかもしれない。
 久しぶりに人間と接する所為か、俺の頭の中は大騒ぎである。
 俺は女の子を不安がらせないよう笑顔を浮かべるが、当の本人は無警戒にじっと俺の顔を見つめ、言う。
「お兄ちゃん、名前、なんていうの?」
「……俺に、名前はないんだよ」
 女の子の問いかけに答えようとして、喉が締まるような錯覚を覚えながら、俺はそれだけ言った。
 祠を作ってもらった頃には、確かに俺にも名前があった。
 しかし時代の流れと共にそれも風化していき、きっと土地開発の抗議に来ていた人間だって、俺の名前までは知らなかっただろう。なにより俺自身、呼ばれなくなった名前など、力と共に失ってしまった。
「あるもん。絶対に、お兄ちゃんにも名前はあるはずだよ」
「それは、そうかもだけど。ええと、言いかたが悪かったね。俺は、俺の名前を覚えてないって言ったほうが正しいのかな。だから、君に教えられる名前はないんだよ」
「自分の名前なのに?」
「だからこそ、かな。長いこと生きてると、忘れちゃうこともあるんだよね」
 女の子は、理解が追いつかないと言わんばかりに顔をしかめていた。
 風貌からして、小学校低学年くらいの年齢だろう。
 子どもには難しい話だったか、と苦笑した俺に、女の子は、
「じゃあさ、お兄ちゃん」
と、真っ直ぐに俺を見据えて、言う。
「自分の名前を思い出したら、わたしに教えてね。そしたら、お兄ちゃんがまた忘れちゃわないように、わたしがたくさんお兄ちゃんの名前を呼んだげる」
 その真摯な言葉に、心臓の辺りがぎゅうぎゅうと締めつけられるような感覚に陥る。
「……君は、優しい子だね」
 だから俺は、それだけ言って、女の子の頭を撫でることしかできなかった。
 女の子は、はじめこそ驚いたように目を見開いていたが、次第に心地良さそうに、そのつり目がちな目を細めていく。
 そうして彼女が満足した頃を見計らって手を離すと、女の子は名残惜しそうに俺を見た。
「月陽」
 女の子は、少しだけ頬を赤らめて、言う。
「わたし、月陽って名前なの」
 それが、名前で呼んでほしいという訴えであるということくらいは、俺でも瞬時に理解できた。
「ツキヒちゃん」
「うん!」
 案の定、名前を呼ぶと、女の子は嬉しそうな笑顔を見せた。
 誰かから呼んでもらえる名前があるというのは、やっぱり良いものなんだな、なんて思考が透けて見えたのか、女の子は、ぎゅっと俺の手を掴んだ。
「お兄ちゃん、約束だよ! 名前を思い出したら、わたしに一番に教えてねっ! わたしが一番にお兄ちゃんの名前を呼ぶから!」
「う、うん、わかった、約束する」
 勢いに押されて、つい頷いてしまった。
「じゃあ、指切りげんまん!」
 言いながら、女の子は俺の小指を、その小さな小指で絡め取り、指切りげんまんの歌を歌う。
「約束したからね? 忘れちゃ駄目だよ?」
「……わかった」
 指切りをした小指を見つめながら、俺は言った。
 人間と約束なんて、初めてした。
 いつも人間に願われ、それを叶えていた。それに不満を抱いたことはない。いつしか願いが増えていき、最後にはこうして存在を忘れられていっていても、それは自然の摂理だからと自身を納得させていた。そんな俺でも、約束がどういうものかは、知っている。
 約束は、守るものだ。
 守るのなら、俺にだってできるはずだ。
「わたし、帰る」
「探してた人は、もう良いの?」
 俺の問いに、女の子は今一度じっとこちらを見つめたあと、
「うん」
と、満足そうに頷いた。
「それじゃあ、麓まで送っていってあげる。逢魔ヶ刻の山中は危険だからね」
 そう言って俺は立ち上がり、女の子に手を差し伸べた。
 女の子は、これまで大人と手を繋ぐ機会がなかったのか、恐る恐るといった様子で、俺の手を取った。
 この子の居た茂みから麓の住宅地までは、距離としてはそう長くない。舗装された道に出てしまえば、子どもの足でも十五分ほどで麓に到着するだろう。
 そんな短い道中、女の子は俺の着ている着物についてや、ひとつに結っている長い髪に強い関心を持ったようで、とにかく質問攻めだった。流石に人間社会の生活にまでは疎い俺は、のらりくらりとそれを躱しつつ、もしも次に人前に姿を表す機会があるようなら、いっそ、学校の生徒に扮したほうが良いかもしれない、なんて考えていた。
「……さて、俺が一緒に行けるのはここまで。ここから先は、ツキヒちゃん一人で帰れるかな?」
 俺の力が及ぶぎりぎりのところまで来たところで足を止め、女の子に問いかけた。
 目の前には、ぽつぽつと一軒家が見え始めており、もう少し歩いていけば、街灯の点いた明るい道に合流できるだろう。
「……ちょっと、怖い」
 しかし女の子は、俺と繋いでいる手を、ぎゅっと握り締めた。
 いくら文明が進化しようと、闇は恐怖を掻き立てる。
 特に、こんな弱りきった神様でさえ視認できるこの子にとっては、他の人の何倍も恐ろしいものなのだろう。日が沈み、夜の冷たい空気が立ち込め始めているのだから、なおさらだ。
「大丈夫だいじょうぶ」
 言いながら、俺は空いているほうの手で、女の子の頭を撫でた。僅かな間だけでも良い、この子に降り掛かる災いが、少しでも減るようにと、祈りを込めて。すると、俺の意思に連動して、ふわりと風が通り抜けた。
 これで良し、と俺は小さく頷く。
 今の俺が与えられる加護なんて、本当に微々たるものかもしれないけれど、それでもきっと、なにもないよりかはマシのはずだ。
「ほら、お行き。もう怖くないよ」
 繋いでいた手を離し、そっと彼女の背を押す。
 女の子は怖怖と数歩ほど歩くと、それだけで俺がなにかしたことに気がついたように振り返った。
「ありがとう! ばいばいっ! またね!」
 この子にとっては、いつも使っている別れの言葉だったのだろう。
 俺はそれにどう返すべきか、一瞬だけ悩み、
「うん。またね」
と、小さく手を振りながら答えた。
 いつ消えるかわかったものではない現状ではあるけれど。
 この子が言うなら、きっといつか、また会える気がしたのだ。
 俺は彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続け、そして、姿を消した。


「――見つけた! お前、『泣きぼくろの男子生徒』だな?!」
 それから八年後。
 君が俺を覚えてくれていたから、俺は再び姿を現すことができたのに。
 力を失いすぎて、とうとう全ての記憶を失ってしまっていたんだ。
 ごめんね。
 それから、ありがとう。

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