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【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #1

第1話 揺らめきの邂逅――(1)

 僅かに初夏の空気を含み始めた春風が、ふわりと廊下を吹き抜ける。
 掲示板に貼られた紙は風に揺らされながら、それでもしっかり壁に張りついていた。
 夕日の差す放課後、校舎内に残る生徒の姿は少ない。
 次々に、減っていく。
 徐々に、遠くなっていく。
 その様があまりに寂しくて、苦しくて――俺は、目を開けた。
「よお、一週間ぶりじゃねえか」
 一番に視界に飛び込んできたのは、苛立ちを顕にしている女子生徒の姿だった。
「ええと……」
 周囲を見回しながら、俺は言い淀む。
 私立境山さかやま高等学校、第二教室棟四階にある一年三組の教室前廊下にて。
 目の前に立つ彼女は腰に手を当て、少しだけ見上げるようにして俺を睨みつけていた。
 まだ意識が覚醒しきれていない俺は、そのままぼんやりと彼女を観察する。
 腰まで届きそうな黒髪は、今日も綺麗に後ろでひとつに結わえられている。入学式から一ヶ月と少しが経過し、着崩しかたを覚えた制服姿。そして、あらゆるものを拒絶せんとする鋭さを持った、つり目がちな目元。
 未だ微睡む意識の中、それでも不思議と、彼女は誰だろう、という疑問は浮かばなかった。
 だって俺は、確かに彼女を知っている。
「……久しぶり?」
 小さく右手を上げて、俺は彼女にそう挨拶した。
 時間の感覚が、ひどく曖昧だ。感覚的には、少しの間眠っていた程度の認識なのだが、どうやら実際とはズレが生じているらしい。聞き間違いでなければ、さっき一週間ぶりと言っていたか。
「オレの名前、わかるか?」
 記憶がぼんやりとしていることを見抜かれたのか、彼女は俺にそんな質問をしてきた。
「ええと――」
 改めて、彼女との記憶を辿る。
 そうは言っても、探すのに時間を要するほど思い出の蓄積されていない俺の頭は、即座に彼女の質問に対する答えを用意することができた。
「――アサカゲさん。アサカゲ、ツキヒさん」
 知っていて当然の情報を答えるだけのはずだから、俺は可能な限り平静を装って答えた。
 彼女――アサカゲさんは、少し安心したように眉根を下げて小さく頷くと、
「ここがどこか、わかるか?」
と、新たな質問を投げかけてきた。
「境山高校」
 徐々に意識がはっきりしてきた俺は、差し障りなく回答していく。
「オレのクラスは?」
「一年三組」
「自分のこと、覚えてるか?」
「生前の記憶がなくて成仏できない地縛霊ってことだけ」
「仮で決めた名前は?」
「……」
 思わず、回答に詰まってしまった。
 忘れたわけではない。むしろ、曖昧になっている記憶の中で、それだけは強烈に印象に残っていると言っても過言ではなかった。だけど、俺の中でまだ受け入れきれていないというか……。
「おい、答えろよ。覚えてんだろ?」
 口籠る俺に、アサカゲさんはわかりやすく圧をかけてきた。ここで抵抗したところで意味はないことも、なんとなく覚えている。大人しく降伏したほうが良さそうだ。
「……ろむ。らりるれ、ろむ」
 それでももう一瞬だけ抵抗してから、俺は言った。
「名づけたのは?」
「アサカゲさん」
「そうだ。五十音の中でも『ら行』が好きなお前に、ぴったりの名前だな」
 今度は満足げな笑みと共に頷くアサカゲさんである。確かに『ら行』が好きと言ったのは俺だけれど、それもほとんど直感でしかない。かなり雑な命名としか思えないのに、どうしてこうも自信満々なのだろうか。そう思うけれど、俺にそれを尋ねる勇気はない。
「ったく、いきなり姿を現さなくなったと思ったらこれだよ。大丈夫か?」
「たぶん……?」
「それじゃ、オレとの約束は覚えてるよな?」
「う、うん、モチのロンだよ。アサカゲさんに、俺の生前の記憶を取り戻す手伝いをしてもらう代わりに、俺はアサカゲさんの除霊や浄霊の手伝いをするってやつでしょ」
「ふん、覚えてんなら良いさ。だから、勝手に消えんじゃねえぞ」
「うん」
 話をしながら、徐々にアサカゲさんと出会った頃の記憶の輪郭がはっきりとしてきた。
 四月半ばに初めて意識を覚醒させた俺は、しかし生前の記憶がなく。そこに現れた学校公認の霊能力者であるアサカゲさんと話し合いの結果、先の言葉の通りの協力関係を結んだのだ。
 では、学校が公認している霊能力者とは、どういうことか。
 一般的に考えて、まずそこが気になることだろう。俺も、初めてそれを聞いたときは、死んだときの衝撃が強過ぎて、現れる世界線を間違えたのかと思ったくらいだ。
 私立境山高等学校。
 小高い山の中腹に建つこの高校は、とかく心霊現象が起こりやすい。
 原因は定かではないが、これまで霊的なものを目にしたことのない生徒でさえ、日常的にこの世ならざるものが視えてしまうようになる土地柄らしい。
 生徒にいたずらをして回る不審な幽霊が現れたときだって、『恐ろしいもの』というよりかは『厄介な不審者』として生徒間で情報共有されていたくらいだ。……まあ、その不審者というのは、俺のことなのだけれど。
 先の件については、アサカゲさんにさんざ詰められたあとなので、反省はしている。が、後悔はしていない。あのときは、幽霊で在りながら生きた人間に認識されていることに、とにかく喜びを感じていた。そのことで無性にテンションが上がっていて、とにかく可能な限り動き回っていたかったのだ。
 余談はさておき。
 つまりアサカゲさんは、俺のように、幽霊だからと校内で好き勝手する輩に対応できる人間として、学校側から様々な権限を与えられ、日々除霊・浄霊活動に勤しんでいるのだ。
「それで? 一週間ぐっすり眠りこけて、生前のことを夢にみたりはしなかったのか?」
「残念だけど、夢もみないほど熟睡だったみたい」
 アサカゲさんからの問いかけに、俺は両腕を交差してばってん印を作りつつ、そう答えた。
 生前の記憶については、欠片も思い出せない。
 それどころか、いたずらをして回っていたときの記憶さえ、既に朧げになりつつある。単に時間経過によるものなのかどうかさえ、俺には区別できない。生きていた頃の感覚が、記憶ごと失われている所為なのかもしれない。
「そうか」
 頷いて、アサカゲさんは俺を上から下まで吟味するように見る。とはいえ、膝から下が透けていて地に足のついていない有様なので、あくまで言葉の綾なのだけれど。
「記憶がないっていう危なっかしい状態の割に、悪霊化の兆しも一切ねえし。不安定なりに状態は安定してるのは相変わらずだな。何度見ても、わけわかんねえ奴だな、お前」
 眉間にしわを寄せながら、アサカゲさんは言った。
 生前の記憶がない幽霊なのに、悪霊化する気配が一切ない。
 それだけ脆い存在であるにも関わらず、暴走することもなく、意思疎通もできる。
 アサカゲさんでなくとも、俺自身でさえ『わけわかんねえ奴』だと思う。けれど、そんな奴と協力関係を結ぼうと持ちかけてきたアサカゲさんのほうが、ともすればやばい奴なんじゃないか。
「ねえ、アサカゲさん」
「なんだよ」
「前にも訊いたかもしれないけどさ。どうして俺と協力関係を結ぼうって思ったの?」
 俺の純粋な質問に、アサカゲさんは、マジで前に訊かれたことだな、と苦笑いを浮かべつつも、言う。
「お前、ここの地縛霊だからか、このややこしい造りの学校に詳しいだろ。それは新入生のオレにとっては有益だ。それと、記憶を取り戻せたら成仏するだろうとはいえ、お前は一回派手に悪さしてるんだから、野放しにはできない。常に状態を監視できて、手綱を握れるようにしとかねえとな。ほら、手ェ出せ、ろむ」
「ええ、その流れで差し出すの、怖過ぎるんだけど……」
 全くもって良い予感はしないが、オレに断るという選択肢は用意されていない。
 渋々右手をアサカゲさんに差し出すと、即座にその手首になにかを装着してきたではないか。
「……なにこれ」
 それは、青みがかった薄い緑色のリストバンドだった。
「リストバンドっていう、アクセサリーみてえなやつ」
「それは知ってる」
「オレとの連絡用だよ。それに向かって話しかけたら、オレに繋がるようにしてある。まあ、霊力を使った電話みたいなもんだよ」
 言いながら、アサカゲさんは自身の右手首につけているブレスレットを指差した。リストバンドと同じ色味だ。
「霊能力者ってこんな便利なものも作れるんだねえ」
 感心しながらリストバンドを眺めていた俺に、アサカゲさんは小さく鼻を鳴らし、
「ちょっとした防衛機能もつけておいたから、緊急時は一度だけ盾にもできるぜ」
と言った。
 俺にはこれにどれほど高度な術やらなにやらが込められているのか、さっぱりわからない。けれど、その様子からして、かなりの自信作であるらしいことは理解できる。
「ありがとう、アサカゲさん」
 だから俺は、素直に感謝の意を伝えた。
 気持ちを言葉に乗せて伝えることは大切だ。なにせ俺は、明日どうなるかもわからない身の上である。可能な限り後悔のないよう過ごしたい。
「ドウイタシマシテ」
 照れ隠しなのか、アサカゲさんは片言気味にそう返し、
「それより、ろむ。お前、良い時間に出てきたな」
と、話題を変えることにしたようだ。
「良い時間って……もう夕方じゃない?」
 窓の外の風景は、日が沈みつつある夕暮れどきだ。完全に放課後である。幽霊にとっては活動開始時間と思われるかもしれないが、特段夜に姿を現す決まりはない。みんな思い思いの時間に姿を現しては現世をさ迷うのが、幽霊の常である。
「お前に紹介したい人がいるんだ」
「紹介したい人?」
 オウム返しに訊いた俺に、アサカゲさんは、ああ、と頷いた。
「何年も前から一人でこの学校を霊的な意味で守ってきた、萩森はぎのもり先生っていうすげえ人」
「この学校の霊能力者って、アサカゲさんだけじゃないんだ」
 俺がいたずらをして回っていたとき、追いかけてきたのはアサカゲさんだけだったような気がする。だからなんとなく、彼女が一人で校内の霊的な治安を守っているのだとばかり思っていた。
「オレはあくまで先生のサポート役だ。おじいちゃん先生なんだよ、萩森先生。都度現場に急行できなくなってきてて困ってるっていうんで、オレがその辺りの担当を代わりにやってるんだ」
「なるほど」
 毎日のように心霊現象が起きている境山高校では、しかし実害のある例の出現は存外少ない。そうはいっても、校内をさ迷う霊が居れば、状態を確認しに行かなければならないのだろう。だが、この高校でそれは、あまりに酷というものだ。
 なにせ、創立から今日に至るまで、増加する生徒数に対応する為、或いは、数え切れないほどの心霊現象が起きている所為か、全ての教室棟で増改築が行われており、構造の複雑化が進んでいるのだ。三年生でさえ、普段用事のない教室には辿り着けずに迷子になる、なんてことはざらである。
 であれば、アサカゲさんの機動力は喉から手が出るほど欲したものだったのだろう。彼女の運動神経の良さや、無尽蔵のスタミナについては、いつまでも追いかけ回され恐怖を覚えた俺が保証する。むしろ、これほど適材適所な人材が、よくもまあ都合良く通学圏内に居たものだ。
「そういやアサカゲさんって、元々この辺りに住んでたの?」
 ふと疑問に思ったことをそのまま尋ねると、アサカゲさんは首を横に振って否定した。
「いいや、出身は県外だ。けど、いろいろあって、八年前からこの近くにある寺で世話になってる」
「お寺繋がりで、この学校から声がかかったってこと?」
「そんなところだ」
 日常的にこの世ならざるものが視える子どもが、周囲からどういった扱いを受けてきたのかは、想像に難くない。だから敢えてそれ以上のことを訊こうとは思わなかった。
 アサカゲさんもその辺りは言及されたくないのか、それでさ、と話を戻す。
「先生にろむのことを話したら、一度挨拶をしておきたいって言ってたんだ」
「マメな人だねえ」
「いや、たぶん間違ってお前のこと除霊しないように、気配を覚えておきてえだけだと思うけど」
「……さいですか」
 しかし確かに、出会い頭に除霊されてはたまったものじゃない。
 そういう意味では、幽霊にとってこの高校は生と死が紙一重である。……まあ、幽霊は総じて既に死んでいるわけだけれど。
「そういうわけだから、行くぞ、ろむ。緊急の会議が入ってなけりゃ、先生はいつもの部屋に居るはずだ」
「はーい」
 入学して間もない割に、アサカゲさんの足取りに迷いはない。それだけ行き慣れた場所なんだろう。そんなことを考えながら、俺は彼女について行く。

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