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岬に座って、書くことについて考える午後。

書きたいことはあるけれど、書き出しをどうしようかいつも迷う。そんな私は書くことがうまくないんだろうなと思う。それでもなんとか書きたいことに到着するために、いつもなんとか頑張っている。

今日は土曜日だけど予定がない。正確には予定を入れなかった。友達からの誘いを断って、休日に私が何をしたかったかと言うと、つまり書きたかったのだ。

何を?と聞かれても困るのだけれど。まあちょっと待ってください。そのうち出てくるだろうから。とりあえず画用紙に絵を描くみたいに、目的を定めず、結果できた「文章」がどうなるのか、ただその楽しみだけで書いてみたい。


明日は、尊敬する(というかファンの)ライターさんから「コンサルティング」を受ける。書いた記事の添削がメインになると思うんだけど、初回は電話で、まずは自己紹介のようなセッションを受ける予定だ。

だから今日は朝から少し緊張している。

友達からの焚き火の誘いを断ったのもこのためだ。私は特別「アウトドア派」を自称しているわけでもないけれど、自然の中で遊ぶのが好きだ。ちなみに言うと誘ってくれた友達のことも大好きだ。だから私が彼女からの焚き火の誘いを断るのはけっこう相当なことなんだけれど、今日はどうも朝からソワソワして、やらなきゃいけない仕事も手に付かない。

だから私は岬に行った。自転車で3分くらい、ご近所にある岬だ。

岬に行く前に、岬とは逆方向の国道沿いにあるコンビニに行った。ホットのカフェラテとタバコを一箱。なんとなく手ぶらでは行けないのは、「なんとなく」でそこにいることがちょっとだけ悪いことのような気がするからかもしれない。日本では、ただボーッとそこにいることがなんだか憚られる。ボーッとすることしかない、この田舎町であっても。


岬の名前は「恋人岬」という。たいそうな名前でしょう。もし電話で誰かに「今どこにいるの?」って聞かれたらちょっと言うのが恥ずかしい気がする。それも、天気もまずまずの土曜日の午後、女が一人で、カフェラテ片手に行く場所としては、みんな「どないしたん?」て聞きたくなる名前だ。

でもその岬は今日の私にとってはとても手頃だった。おそらく誰も知り合いには会わないし(通りすがりに目撃されるかもしれないけど)、見晴らしよく海は眼前に広がるし、手頃なベンチとテーブルがあって、何より家から近い。

ただ私は海をみながら、波の音を聞きながら、書きたかったんだよね。「何か」を。多分、明日のことと自分のことを。


そもそも私がなぜライターのコンサルティングを受けようと思ったのかというと、多分一言で言うと迷っていたからだと思う。自分がどこにいるのか、どこにいきたいのか、結果どこまでいきたいのか、ちょっとよく分からなくなっていて、そういうのをきっと誰かにぶつけたかったんだと思う。

ちょっと独りよがりな表現になってしまったけれど、多分そういうことで、つまり平たく言うと「ライターとして近い将来、独り立ちしたいんだけど、どうしたらいいか分からなくて、誰かに相談に乗ってもらいたい」て思っていて、たまたまTwitterをフォローしていた気になるライターさんが「コンサルはじめました」と呟いていたから、ちょっと一瞬迷ったけどDMさせてもらった。

一瞬迷ったのは、「本当に私受けちゃっていいのかしら」と思ったから。多分まだまだ「ライター」という仕事や「文章を書く」ということに対して、自分は覚悟がない気がしている。noteもしっかり書いていないし、仕事で書く文章も筆が遅く、締め切りがない記事の取材素材は寝かし込みがちだ。

言葉を紡ぐことは、自分にとって楽しいことなんだろうか。

そんなことを最近改めて思う。必要なことだとは思うし、ここだけの話、とてもおこがましいけれど「私が書かなあかんやん」と思うこともある。(何者でもないくせに本当にすみません)

本気で取り組んで腕を磨けば、自分にしかできないことが言葉を紡ぐことでできるとも思う。でもそれは私に限った話じゃなく、誰も彼も取り組めばそういうことができるもんだと思っているからなのだけれど。

だから今日は岬で、そんなことを考えていた。なんで私は書きたいのだろう。現に「書きたい」と思って岬にまで来たわけだけど、それはなぜなんだろう。水平線に蜃気楼みたく浮かぶタンカーを眺めながら、白いノートにペンで書きはじめたわけで。

でも結局、自分の中の「書く」を切り取るためには、「書く以外のこと」を切り取らなきゃいけない。結果、次みたいな書き初めになってしまった。

文章をかく  写真をとる  絵をかく

私はライターを名乗っている(名乗りたい)けど、写真もとるし、絵もかく。多少だけれど実務として写真をとったり、絵画は趣味だけどイラストをかいたりもしている。

「文章を書く」という一つの動作は、私の中にたくさんあるよくわらかないものの一つでしかなくて、それと他のものとの対比を通じての方が、自分の中の「文章を書く」の輪郭がはっきりする気がする。

友達からよく「あんたは考えすぎね、考える人ね。」とロダンみたいなことを言われるけど、確かに自分でもややこしくてすみませんと思う。こういうこんがらがったところに昔から自分でも辟易していたけど、もう30歳をすぎてしまったので、大人しく認めて付き合ってあげましょうと最近では思うことにしている。

「それ」と他のものとの対比の中で「それ」をはっきりさせる。そんな作業を、実は嬉々としてやってしまうのは、私が旅人だからかもしれない。


初めて一人で新幹線に乗った10歳の時から、知らない土地へ行くことは私にとって最高のエンターテイメントだ。生まれ育った土地がたまたま外国をルーツに持つ子どもが多い場所だったこともあって、自分と自分が知っていることと、それとは別の人やものごとを対比する癖が自然とついた。

ある程度大人になって、国内外を旅するようになり、26歳の時に無期限で海外を放浪することにした。旅をする過程で、様々な「自分と違うもの」と出会い、自分探しをしたわけじゃないけれど、結果、自分の輪郭がとても濃く縁取られていることに気がついた。それはともて心地よい経験だった。

だから私は、何かを探し当てたい時はその輪郭を意識しながら周囲の違うものを集めるようにしている。まあ時間はかかるけれど、その方が納得感があるので私は好きだ。そして何より楽しい。


話は逸れてしまったけれど、私は文章を書くことも、写真を撮ることも、絵を描くことも同等に好きで、ただ、他の二つと比べた時に、文章を書くことだけがどうにも純粋でなくなってしまっていることに気がつき、だからこそ最近迷っている。どうしたものかしら。

写真を撮ることや絵を描くことに、私はプロではない。それでお金をもらいたいと思わない、というと嘘になるので言わないけれど、プロでないが故に、誰か顧客を意識してしまった時点で、私はきっとその写真を撮れないし、絵は描けなくなる。

私にとって写真も絵もあくまで私自身のためで、そこに「誰かにわかりやすく受け入れられるものにしたい」という欲が入ってしまった時点で、私は私の写真と絵を愛することができないと思う。(ここでいう絵はイラストとは別のことだと思って欲しい)

でも文章は違う。

私は文章でプロになれたらいいなと思う。誰かを応援したり世界の面白さや広さを伝える道具として、「良い文章」が書けたらいいなと思う。それが私の外向きの「書きたい理由」なんだろうと思う。

でもそこに写真や絵のような純粋さがなくなっていて、最近苦しい。「人に認められたい」と思いながら「認められるレベルになってないこと」が悔しいし、何より認められるように頑張って書くことがしんどい。

しんどいけど、人に読んで良かったと思われる文章でないと自分の文章を愛せない気がする。自分が書いた文章の価値基準が自分の外側にあってしまっているから、もはやその文章が自分にとって良いのか悪いのかの判断さえもできなくなってしまっている。私にとって「文章を書く」ということは最近そんなことなのだ。


と、こんなことを家から3分の岬のベンチで書いていた。忘れないようにもう一度言うけど、岬の名前は「恋人岬」だ。すごい名前でしょう。

岬からは左手に太平洋を望み、右手には木々の間から家々のとったんか微かに見える。海と陸地を分断するように、三日月型の浜がでんと大きく視界を区切っている。

その景色を見ていると、唐突に、旅がしたいと思う。
でも一方で、この地にずっといたいとも思う。

移動も定住もどちらも好きだ。この岬からの景色のように明確に区切りを入れることはできない。書くことに対してもそう。書くことがとても好きだと思うし、実はそんなこともない気もする。気持ちはいつも流動的だ。三日月の浜に打ち寄せる波みたいにこっちへバシャバシャあっちへバシャバシャしている。

昔は書くことに対して憧れがあったし、目指すべきものはそれしかないと思っていた。今は、それはすべきことなんじゃないかと思っている。また少しおこがましいけれど。

というか、みんなもっと書くべきなんだと思う。自分の目で見て、脳が描写した世界は、私は私の、あの人はあの人の、それぞれ別のその人だけのものだから、その貴重さは唯一無二で絶対的なはずだから。そこから紡ぎ出された文章はやっぱり唯一無二なはずだから。

もし私が文章を書くことを極めることができたら、そんな唯一無二の世界を表に出すお手伝いができたらいいなと思う。インタビューでもいいし、エッセイでもいい。自叙伝でもいい。その人の外側にある事実とその人の内側にあるその人の真実を世に出すお手伝いができたら、おそらく私はとても嬉しい。

目に見えることだけじゃなくて、目に見えることの根っこにあるようなことも同時に書けるようになりたい。「物語」は全てつながっていて、どう区切りを入れるかで、どこの誰の「物語」なのかが別れるだけだ。

世界はつながっているし、人も全部つながっている。面白いことも面白くないことも、全部つながっている。世界はややこしく見えて意外とシンプルで、世界をややこしいと思いたい私たちがいるだけだ。

どんな時も美しく、どんな時も醜い。私たちはきっとそんなもんでしかなくて、きっと明確な境界線なんてない。だから少なくとも、不合理に誰かを傷つけなければ、どんな生き方も肯定されるべきだと思う。

私が書く文章で、そんなことができたらとてもハッピーだなと思う。

そんなことを目的として、私は文章が書けたらなと思う。


その上で、私が鍛えないといけないことは、諦めないことかもしれない。全てを書きたい。見えているものもそうでないものも全部。そう思うと、必然的に莫大な労力がかかる。いっこうにオチにたどり着かないし、この文章のように「結局何が言いたいんですか?」となる時もある。

それでいいと頭の端で思いつつ、結局それではいけないと思い直って、結局書けなくなっている。いつも途中で書くことをやめるか、無理やり話にオチをつけて「完成」としてしまう。これを書いている間も、。(マル)ごとに、席をたったり、携帯をいじったり、まあ集中力がない。

書くことはしんどい。
でも書きたい。
書きたいことがあるから。
書くことでちょっとばかし叶えたい世界があるから。

こんな気持ちを明日、コンサルティングで話してみようかな。引かれないといいけれど。


書き終わって、ちょっとつきものが落ちたみたいな気持ちになって海を眺めた。沖合のタンカーはさっきいたところから随分と先に進んでいて、対面の岬の影に隠れそうだった。

書きたいことを書きたい風に書きたい分だけ。そんな午後があってもたまにはいいよね。




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