見出し画像

祖国の子

幼稚園から中学校まで、地元の在日朝鮮学校に通いました。
”ちょうせん”
という言葉がどういう意味なのかすら分からなかった幼稚園生の頃から、
園児たちは先生のことを「ソンセンニン」
先生は園児たちのことを「オリニ」
と呼びました。
入園する前から、母をオンマ、父をアッパ、祖父をハルベ、祖母をハンメ、姉たちのこともオンニと呼ばされていましたが、それが彼らのことを指す固有名詞だと思っていました。
近所の子どもたちは『お母さん』や『ママ』なのに、なんでうちは違う呼び方なんだろう、とぼんやりと疑問に思ったことはありますが、どう呼んだとしても実物が変わるわけじゃないからどうでもよかったです。

それが『ウリマル(私たちの言葉)』だと知ったのは、幼稚園に入園してからです。
園児たちはみんな、家族のことを私と同じような呼び方で呼びました。
アッパ、オンマ、オンニ、オッパ、ハラボジ、ハルモニ、スンモ、サンチュン……。
同じだと思うと、嬉しかったです。

祖国は地上の楽園


私は在日コリア四世です。
曾祖父の故郷は、朝鮮半島の南東部に位置する、大韓民国の慶尚南道・大邱という地域にあります。
祖母の故郷も同じ慶尚南道昌寧郡という地域です。
行ったことないけど。
祖父は生前、釜山についてよく話していました。
飯が美味いとか、訛りが可愛いとか。

「なんで私は韓国人なのに、”朝鮮学校”に通うんだろう」
疑問を持ち始めたのは、小学3年生くらいのときでした。
「それは、ハッキョ(学校)でいっぱい勉強したら分かるわ」
先生にはそう言われました。
その後中学を卒業するまで、その問いに対する答えは分かったものの、右に傾いたり左に傾いたり、気持ちはますます迷宮に迷い込むことに。

学校の先生たちは私たちのことを”チョソンサラン(朝鮮人)”だと言い、『祖国の子』と呼びました。
今はふたつの国に分裂しているけれど、祖国はいつか必ず統一する。
何年も繰り返しそう言われて、4年生くらいまでは信じていました。
本当に統一して、そしたら私たちは祖国に帰るんだと信じきっていました。
ハルベとハンメの故郷。
38度線がない世界は、どんなに素敵だろう。
誰からも後ろ指を指されることもないし、
「国に帰れ」
と差別されることもない素晴らしい世界。
争いごとはなくなって、そしたら……。

――そしたらアッパも一緒に暮らせるようになったりして。

何も信じない子ども



しかし、待てど暮らせど統一する気配はなく、むしろ両国の睨み合いは深刻さを増すばかり。
『統一するする詐欺』
気付き始めた頃から、大人たちにの前では無垢で天真爛漫な子どもを演じる一方、かなり冷めた部分を持った、裏表の激しい子どもだったように思います。


先生たちの呼ぶ祖国が、国際的にはもはや存在しないものとされているということを知ったとき、地面がぐわんと大きく揺れたみたいな、世界がぐるっと旋回しそうな感覚に陥りました。
もともと立っていたはずの場所がなくなって、え、私って今までどうやって立ってたんだっけ、的な心境です。
私はどこにも属せていない。
どこにも根を張れない。
一体誰を信じたらいいのか分からず、
「ちょうせん」
という言葉も、学校も、言葉も、なにもかもが嫌になって逃げだしたくなりました。

誰も、なんにも分かっちゃいない。
朝鮮なんて国はないし、
地上の楽園であるはずがないし、
まず、”テレビの”ニュース見てんのか?
私は祖国の子なんかじゃないし、
そもそも祖国なんかないし、
アッパはもう絶対に帰って来ない。

全部、茶番。
でもそれは誰のせいでもなくて、だって、先生たちも同じように、そういう教えを幼い頃から叩きこまれてきたわけだから。
信じるか信じないかはその人の自由であって、私がとやかく言うことではありません。
でも、こういうことを言うと『変人』扱いされるんじゃないか、愛国心がないと怒られるんじゃないか、親不孝者と罵られるんじゃないかと思うと、黙って飲み込んだほうが利口だと思っていました。


自分の本音が分からない



と、ここまでを読み返してみても、まだ分かりません。
これが本当に私が感じていたことなのか、大人になった今、それっぽい内面の戦いの物語を創作した部分もあるような気がします。
もちろん、悩んでいたのは事実です。
でも、たぶん、
どうでもいい
という気持ちが一番大きかったように思います。
世界情勢や歴史の真実よりも、今の私が、世間からどう見られているのかの方がよっぽど気になりました。

学校で友だちと遊ぶのも、ルーツを学ぶのも楽しかったし、父親がいないのは寂しかったけれど、母や祖父母、親戚たちからありったけの愛情を注いでもらっていたから、ある意味”冷めてる”とは言え、結局幸せな子どもだったんだと思います。
ただ、それだけじゃダメなんだと思うと息苦しさはありました。
なにかにつけて『祖国のため』
嫌。私は自分のために生きたい。
そういう自己中な精神がダメだと責められているようで、鬱陶しかったです。
もっと自由に、子どもでいさせてくれよ。
子ども扱いはするくせに、国とか思想とか、そういうでかいの押し付けないでよ。

それが、本音です。
なかなか言えなかったけど。
こう思うこと自体が、とても罪深いことのように思えて。

ハッキョも、ソンセンニンも、教えてもらった言葉も文化も好きです。
でも生まれ育った大阪も、地元の人も、日本の文化も好きです。
それは、おかしなことでしょうか?
どっちも嫌なときもあるけど、どっちも好きです。


見る角度によって都合よく変わる歴史も、人を国籍だけで判断する人が一定数いるという事実も、世の中にはうんざりすることもあるけれど、私はそんな世界を愛しています。

愛情に気付きさえすれば

葛藤や自己憐憫に陥った学生時代でもありましたが、かけがえのない”愛”に触れられた時期でもありました。
私たちが今もこうして生きているのは、命をかけて戦った先人たちがいたから。
彼らに愛されて、守られて、
「あ、”祖国の子”って、そういう意味でもあったんだ」
と今となっては心から感謝しています。


「自分に自信を持てる子に、自分を愛せる子になって欲しかった。全然恥ずかしくない、私はここにいるって、胸を張って生きる子に。
じゃないと誰のことも認められない人になってしまうから」

私が成人した頃、母に娘を民族学校に通わせた理由を聞きました。
母は、短大を卒業するまでずっと日本の教育だけを受け、韓国人でありながら、文化も、歴史も、言葉も知らないそんな自分のことを、長い間恥じていたそうです。

「世界は広くて、いろんな人がいるってことも知って欲しかった。考え方も違うし、文化も違う。でも自分の文化をしっかり分かっていれば、違うものも受け入れられうやろ?違いを楽しめるやん。
文化って、言語のことだと思う。あの学校に行って、自分の母国語を身に着けて欲しかった」

親の大きすぎる愛に気付かないほど、私は自分のことで精いっぱいだったのだと思います。

第三の目

文化=言語

その後私は英語を身に着け、また違った角度から自分のことを見つめようと試みました。
面白かったです。
歴史も現状も、複雑で(笑)

留学中。
イギリス人の友人に国籍を聞かれたとき、
「日本で生まれ育った韓国人だよ。私たちは、少し複雑なんだ」
と自嘲気味に説明すると、彼は両手を叩いて喜んでいました。

「それは素晴らしいことだよ!
複雑であればあほど面白いじゃないか。人間も、人生も」

世界は広くて、本当にいろんな人がいますね。
面白いです。
もし今の私が、あの頃の自分に何か言うことが出来るとしたら、こう言いたいです。

とことん悩め。
いつか面白い人に絶対に出会えるから。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?