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面白くない人は面白くなれるか?

最近noteを読んでいて、面白いことに気づきました。

それは、面白い文章と面白くない文章がある、ということです。

ある意味当たり前のことかもしれませんが、この差はどこから生じるのか、そしてこの差を埋めることは可能なのか、と疑問に思ったので、以下考察を進めます。


面白さとは、コンテンツじゃなくて「人」

まず、面白い人の文章は、基本全部面白いです。

そして面白くない人の文章は、基本全部面白くないです。

これはつまり、面白さはコンテンツに依存するのではなく、それを生む人に依存するのだということですね。

面白い文章が書ける人は、何を書いても面白い。

面白くない人はその逆、というわけです。


じゃあその面白さって、努力やトレーニングで身につくのだろうか。

面白くない人が面白くなることは可能なのだろうか。

気になるのはそこですね。

なぜなら面白いは善で、面白くないは悪という前提があるから。

「面白くない?じゃあ面白くなるためにはどうしたらいい?」

ほとんど反射的にそういう発想になります。


前提を疑え


なんかよく聞く言葉ですね。

それを発揮するのは、今です。

「なんで面白いは善で、面白くないは悪なんだろう?」と、前提を疑う時は、今です。

面白い人はちやほやされて、面白くない人には人が集まらないから。
面白い方が楽しいし、いい思いができる。面白くないのはつまらない。

それはその通りでしょう。

そして普通はここで終わります。

で「やっぱり面白いほうがいいよね」となって、猫も杓子も面白さを目指すわけです。


前提を覆す

面白くない人が面白さを目指すのは、苦行です。それはある意味地獄です。

なぜなら本来の自分を曲げる行為だから。

それで人生がおかしくなります。

なんでおかしくなるのかというと、前提が覆らなかったから。


幸せになりたかったら、前提を覆す必要があります。


それでしか幸せになれません。

自分を曲げては幸せになれないのです。

幸せになりたかったら、自分を曲げる必要がないように、前提のほうを覆す必要があります。


ひっくり返すべきは、前提の方です。

なぜなら本来それは無いものだから。

無いものがあたかもあるかのように、自分の中に巣くっているのです。

「当たり前」として。


それは本来、当たり前ではありません。

なぜなら生まれた時は当たり前ではなかったから。

人生のどっかの時点で当たり前になったものです。

オオカミに育てられた少年にとって、「面白くあるべき」は当たり前だろうか?

そんなこと考えもしないはず。


つまり「面白くあるべき」は、自分の中に巣くっている、オリジナルの考えだということです。

たとえその考えが世の中の大多数に流布していたとしても、自分の中にさえなければ問題ありません。

要は、自分にとっての前提です。

自分にとってどうか。

問題はその一点だけです。


面白さは重要じゃない

とはいえ、前提を覆すのは難しいでしょう。

それは凝り固まっているがゆえに「前提」ですから。

その凝り固まった前提をひっぺがしてポイっと捨てるのは、なかなか容易ではありません。

そこで前提に取り組むということをそもそも無視して、「自分を認める」ということを提案したいと思います。


面白くない自分、イケてる。

コレです。


だって考えてみてください。

みんなが面白さを目指す中で、そんなこと気にもせず超然としていられるなんて、すごくないですか?

「いや、面白いかどうかなんて気にしたことないですけど何か?」とサラリと言えてしまうなんて、逆にカッコよくないですか?


そうです。

つまり何だっていいのです。

面白かろうと面白くなかろうと、何だっていいのです。

「え?面白くないとだめなの!?あたふたあたふた」と周りに合わせてしまう、その態度がダサいのです。


面白いか面白くないかなんて、全然関係ありません。

面白くない人が面白い人を超えることは、全然可能です。

なぜなら要点はそこじゃないから。

要点は、真に自分自身であるということです。

だからこれだけ多種多様なキャラが、一流として名を馳せているのです。

一口に一流といっても、多種多様ですよね。

優しい人もいれば厳しい人もいます。
几帳面な人もいればルーズな人もいます。
うるさい人もいれば静かな人もいます。
せわしない人もいれば落ち着いた人もいます。

そしてもちろん、

面白い人もいれば面白くない人もいます。


一流は大勢いますが、「こうだから一流」とは一概に言えません。

なぜならキャラクターは多種多様だから。


人はそのままで一流になれます。

いえむしろ、そのままでいることができたなら、一流になれます。

周りの意見にあたふたすることなく、しっかりと芯から自分自身でいれたなら、それが一流です。

いやむしろあたふたしたとしても、悪びれず堂々とあたふたしたなら、それはそれで立派なキャラです。(笑)

あたふたキャラでいいのです。

あわてんぼうキャラでもいいのです。

そしてオドオドキャラでもいいのです。

何だっていいのです。


面白くない人は、面白くなくていいのです。

それは個性です。

変える必要はありません。

堂々と、面白くないでいいのです。

面白くない人が面白いに媚を売って、無理やり面白い風にするほど哀しいことはありません。


ラグビー日本代表の稲垣啓太選手は「笑わない男」としてのキャラが定着しています。

格付けチェックで負け知らずの超一流GACKTはむしろクールなキャラです。

面白いかといえば、全然面白いキャラではありません。


一流であるために面白い必要は全然ありません。

みんながそれぞれに、それぞれのカッコよさを証明しましょう。

自分自身であることによって。

人は面白いからカッコいいのではなく、格好いいからカッコいいのでもなく、その人自身であるからカッコいいのです。


結論

面白くない人は面白くなれるか? という設問が、そもそも間違いでした。(笑)

面白くなる必要はありませんでした。

面白さが重要なのではなく、自分自身であることが重要でした。


面白くないなら、堂々と面白くないでいること。

そのことによって、面白くないは面白いを超えることができます。

「え、どうしよう?大丈夫かな!?」と不安になったときは、自分自身を認めましょう。

「あれ?自分ってイケてる」

そうです、よく見たら自分はイケてます。(笑)

どんなキャラであるかは重要じゃありません。


その肯定がパワーです。


そのパワーは、面白さなんぞ楽々と越えていきます。

面白くないを100%肯定しきったら、面白いを楽々と超えてしまうのです。


自分に力を取り戻そう。

面白くある必要なんて、ひとつもなかった。

パワーは今、ここにある。

なぜなら、

「いまの自分、サイコーにイケてるから」(笑)



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