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「この街/人工家族/僕のはじまり」

あの頃はまだ、高度成長期の残り香も濃厚な時代だったから、横浜市役所も「ヨコハマウォーキング」などというPOPなデザインのガイドブックをつくっていた(1981年/昭和56年)。

その中に「ダウンタウン・パラダイス」という一節があって、こんなことが書かれている。

通りの一角に昔懐かしい駄菓子屋があった。手あかが付いて黒光りした木ワクのガラスケースの中には、赤や青のアメ玉や塩せんべい、南京豆、イカ、こんぺい糖がいっぱい。母親から小遣いをせびり、もらった金を汗が出るほど握りしめて店まで飛んで行き、ケースのひとつひとつをにらみながらあれこれ思案した子供の頃。駄菓子屋のおばさんは「早く決めてちょうだい」などとは決して言わず、いつもニコニコ笑って待っていてくれた。

まぁ。こういうイメージで語りたいよな、とは思う。その方が「読者が期待するところ」だともいえる。

でもね。同じ店での僕の経験はこうだ。

おばさんは店先には目もくれず、奥のテレビに釘付け。だから、確かに急かされることはなかった。おばさんは無人のレジみたいなもんだった。こちらに目線もくれない。

当時の僕は、おばさんの前に先にお金を置いてから商品を選んで申告するスタイルで買い物をしていた(あくまでも性善説で臨む…といった、つまりボンボンだったんだろうな)。

あるとき、いつものように先払いして、そのお金を、おばさんは確かに銭函にしまって、でも、その分の駄菓子をおばさんのところへもっていったら、おばさんは「お金をもらってない」と言い出した。レジなどない時代のことだ。記録を辿るわけにもいかない。そばにいた子どもたちも応援してくれたがラチがあかず、僕は泣きながらオフクロを呼びに戻り、ひいばあちゃんが御出座して、ようやく…ということがあった。「20世紀少年」の端緒みたいな話である。

オフクロには、あとで「先に金出して買い物をするバカがどこにいる」となじられて終わった。いい知れぬ孤独感に苛まれた。

たった一度のことだったけれど。

沖中士と筏師の街

「この街」は山手の丘に沿った崖を崩して埋め立てた細長い土地。再開発で生み出された土地にあった。埋め立ての直後に、関東大震災(1923年/大正12年)があったが、その時点では埋め立て完了の更地になったばかり、被災はむしろ軽微。間もなくアメリカ式にボルトで組み立てられた安普請な住居群になった。

震災直後だったから、他地域で被災した者も含め、すぐに住民は集まってきたという。賃貸が主だったし、建売にしても廉価だった。港に最も近い土地だったから、主成分は「沖仲士」や「筏師」だった。

「沖仲士」とは、船から船、船から陸へ。荷物を肩に細い板を伝って荷物を移し替える港に独特の労働者。「筏師」は、丸太を筏に組身、その筏に乗って水上を木材を運搬する人のこと。もともとは山奥の切り出し現場に近い河川で仕事をする人のことを指しだそうだが、江戸時代には木場(現在は東京都江東区)に貯木場ができて、以来、川で流してきた筏を貯める港湾の「貯木場」で仕事をする人についても「筏師」と呼ぶようになった。

(横浜港の場合、ちょうどこの住居群の地先に、その貯木場があった)

資料に開発当時の「この街」の写真をあたると、木造の住宅が規則正しく並ぶ。商店のある「仲通り」に面して一部二階建て。その裏店に平家が並んでいる。今様にいえば、低所得者向けの都心型住宅地といったところだろうか。つまり「まちづくり」ではあった。

でも、僕の記憶の中に、この住居群はほとんど登場しない。第二次大戦中の空襲被害もほとんどなかったと聞いているから(親爆弾から子別れした焼夷弾の筒がひとつ。一丁目と二丁目の間に着弾しただけだった)少し不思議な気がするが、ボルト締めの木造はやはり保たなかったのだろうか。

(うちも、日米開戦前に、この一角を買い取って、住居を兼ねた食料品屋を開業していたが、高度成長期に入る頃には建物を新築している)

囲まれて

石内都さんの写真集「yokohama 互楽荘」(蒼穹舎 2017年/平成27年)の被写体になった山下町の集合住宅「互楽荘」(1990年代まで健在)は、「この街」の住宅群と同時期に建てられたもの。でも、こちらは「6畳&3畳」か「10畳&8畳」にトイレ付で、現在の価格に直せば家賃は月20万~35万円以上という、当時としては「超」が付く高級賃貸アパート。ここに入居できたのは、官公庁の部長さんクラスとか病院の院長さんなどだったという。

つまり、まぁ「アメリカ式のボルト締め安普請」とは「天国と地獄」の関係だ。

運河一本隔てて、そこは互楽荘がある山下町。山下町には県庁や税関など公共施設も集まり、ホテルニューグランドもある。

ホテル ニューグランド

山下町を前面にみれば左手の丘の上は、イギリス領事館やフランス領事館(もちろん当時)がある山手の住宅街。

カソリック山手教会

右手は横浜港だが、至近な距離に1964(昭和39)年のオリンピックの際に設けられた石原裕次郎も会員だった会員制のヨットクラブ(今もある)。夜になると戦後日本の「お金持ち」イメージを象徴する空間がハーバーナイトに輝いていた。

ヨコハマ クルージング・クラブ


三丁目から、さらにその背後にあたる本牧・根岸にかけては占領軍の居住区になり、当時の日本人の目からみれば憧れの、ガーデンとパーティ・ルームがあるマンションと、蒼い芝生の庭付き一戸建てが群をなす。

「この街」は、そんなハイ・ソサエティな薫りに囲まれた低所得者向けの住宅街だった。

米軍根岸住宅地区

商店街には、いかにも「飯場」な「めし屋」があり、角打ちのある酒屋、あとは最低限の生活利便供給な店舗、銭湯。本屋はなかった。薬屋に雑誌のラックが一竿置いてあるだけだった。銭湯にゆくと男たちの背中にはたいてい絵が描いてあった。銭湯の目の前に洋品屋があり、彼らは風呂に入るたびに、その洋品屋で身ぐるみ一式買い揃えると、それまで着ていたものは風呂で着替えて捨てた。危険な仕事だったし、みな金離れはよかった。独身者だけでなく、世帯持ちもそうだった。

(アラ還の僕の子どもの頃の記憶、前の大阪万博の前後か」

街外れには税関職員のための官舎アパートがあり、産業道路沿いには、米軍軍相手のクリーニング工場、トラックごと目方を量る巨大な計量施設や観光バスの駐車場。産業道路を挟んで、その向こうには木造船の造船所、植物検疫所があった。

まさに「季節のない街」だった。
埋め地には「海を見晴らす景観」もないし、潮風はむしろ生臭かった。

(「天国と地獄」が近接しているところがヨコハマではある。グラデーションがかかってなくて、ツートーンなんだ)

1982年の「この街」
 

高校に入学直後、すでに根岸に引っ越していた僕が、久しぶりにご町内を訪ねたとき、たまたま同世代の顔見知りに出会って「どこの高校に行ったんだけ」というつもりで「お前、どこ行ったんだけ」と尋ねると「タイル屋」と即答されたのを憶えている。


ひいばあちゃん

オフクロの実家は、ひいばあちゃんというカリスマが血縁を超えて創った「人工家族」だ。

(ひいばあちゃんが亡くなってから、彼女には娘がいたことがわかった。その娘さんが夭折していたことを、ひいばあちゃんは知らない)

ひいばあちゃんは秩父の嫁ぎ先を飛び出し、ヨコハマに流れ着き、日雇い仕事から小商の店を出し、その後、商売を広げてきた。空襲被害を免れていたこともあって、特に敗戦直後の闇市では「ホットケーキ」で、一山(ひとやま)当てた。周囲がハイパーインフレで仕入れに苦しむなか、小さなアメリカだった占領軍のキッチン・スタッフに渡りをつけて、ホットケーキ・ミックスを横流しさせ、仕入れ価格を安定させながら、それを焼いて闇市で売った。

(ホットケーキ・ミックスの受け渡しは、子どもだったオフクロの役目だったらしい。蓋つきのバケツで何往復かしたと、彼女はお決まりの苦労談にした。何もしないとわかっていても門番のGIはこわかったと)

一時期、わが家の一部を改造して米兵相手のバーにしていたこともあったらしい。なぜか日本語の読み書きは苦手だったのに、ひいばあちゃんは独特の英語で会話には不自由していなかった。たぶん、ホントに耳からだけの英語だったんだろう。「モンキー」が「モンケ」、「サンキュー」が「タンキュー」だったが。

高度成長期に入る頃にはバーは閉めていたが、元米兵、米兵との交流は続いていた。そのネットワークは全米に広がり、僕も妹もずいぶん世話になった。ひいばあちゃんが亡くなって、僕が高校になっても、来日すると、ウチを訪ねてくれる人も少なくなくなかった。

(僕は「シカゴのおじさん」「ベンチュラのおじさん」などと、彼らの出身地や居住地の地名を冠して呼んでた)

ひいばあちゃんは、いわゆる戦争花嫁といわれた日本人の女性にも感謝されていた。

嫁入りを歓迎されることもなく、たった一人で、かつての敵国に嫁いでいく女性に、どこで手に入れてきたのか、前掛けにドル紙幣を包んで、ひいばあちゃんは、大桟橋で「なんかあったら、いつでも帰ってこい。お前の家はここだ」と。船の中で涙が止まらなかったと、高校生の僕にきのうのことのように語ってくれた女性がいた。恩返しだと僕は、彼女にアメリカでずいぶん世話になった。

「この街」は日雇いの街でもあったわけだから、トーちゃんたちが戦地から戻るまでのカァちゃんたちは大変だった。ひばあちゃんのバーは、そうした人たちに就業を提供していた。そんな目的のために、崖地に横堀された防空壕(横浜港周辺は、溺れ谷を埋め立てて造成した土地だったから、周囲は崖地。戦時中、横浜市は崖地に造る横穴式の防空壕を推奨していた)を利用して「日本人は畳を忘れられねえ」と、カァちゃんたちのための「畳屋」を開業したりしていたこともあってという。どこから「い草」を仕入れてきたのか、「い草」ではなかったのか、いずれにせよ、それなりの稼ぎはあったようで、僕にも感謝の声は伝えられた。

わが家には「玉ちゃん」というハンディ・キャッパーの女性が暮らしていていた。彼女は、うちの菩提寺の床下で行き倒れになったおじさんに連れられた子どもだった。それを、ひいばあちゃんが「大野のじいさん」と呼ばれていた独身のおじいちゃんの養子にしてしまい、「玉ちゃん」は、義務教育を終え、死ぬまで、うちの人だった。「大野のじいさん」も、ひいばちゃんが野毛で出会った人。「袖すり合うも他生の縁」で、助け合いながら近所に暮らしていた。

(「大野のじいさん」もばあちゃんやオフクロたちが看取った)

僕自身は、ひいばあちゃんから苦労話しなどを耳にしたことはないけれど、あの時代のデラシネ、女一人に苦労がなかったはずがない。パワハラもセクハラも日常茶飯事だったろう。だから他人の痛みがわかったし、何かしてやりたいと思ったのだと思う。

ひいばあちゃんは、小型ながら、いわゆる立志伝中の人物だった。

(僕の記憶に残るひいばあちゃんは、隠居部屋で、肩から、夏は薄羽おり、冬は丹前(綿の入った広袖の長着で、布地は派手な縞柄のものが多い)を羽織って、煙草盆を前に、ラジオを聴きながら、短い煙草用のパイプで「SHINSEI」を吸っていた)

ひいばあちゃんは小学校中退、それが最終学歴だといっていた。あとは畑仕事で、気がつくとお嫁に出されていたと。今は識字障害みたいなものかもしれないと思っているが、文字の読み書きは一切できなかった。取引先の看板も、絵のように憶えているんだといっていた。必死で生きてきたことは、子どもにもよくわかった。文化・芸術方面にはとんと興味を示さなかったが、そんなゆとりなどなかったのだろう。自分を助けるだけでなく、周囲の人たちを助けていたし、舞台は生き馬の目を抜くヨコハマだ。

ひいばあちゃんの趣味は裁判の傍聴とプロレスのテレビ観戦だった。僕が物心つくころには、ひいばあちゃんは老人性白内障で視力をほとんど失っていたが、テレビに顔をくつけるようにしてもプロレス観戦は続けられていた。裁判の傍聴は「傍聴券を求めて長蛇の列」とはまったく無縁の「マイナーなものを横浜地裁」へということが多かったから、当時は高校生だった叔母か、オフクロが付き添っていた。文化的な素養がなくても「闘争」にはコミットすることができたんだろう。裁判は自分が生きていくための道標みたいなものでもあったんだと思う。

ひいじいちゃんは敗戦を前後して亡くなっている。麻疹を拗らせたと聞いている。生前から喧嘩ばかりで子どもはおらず、ばあちゃんは養女だ。だから僕とひいばあちゃんの間に血縁はない。

子どもの頃、どうして僕には、こんなに叔父や叔母がいるんだろうと思っていたが、それもひいばあちゃんがヨコハマで出会った「ともだち」の息子、娘たち。血縁関係はない。でも、みな、うちのひいばあちゃんを本当の「おばあちゃん」だと思って育ってきたという。僕と同じだ。

ひいばあちゃんが創った「人工家族」は見事なものだった。

八畳二間

東京の下町に生まれた僕がヨコハマにやってきたのは、小児結核と診断され、医者から転地療養を勧められたことによる。当時のヨコハマは東京の下町に比較すれば、充分「転地先」になりえた。

(ただオヤジには申し訳なかったと思う。当時、バス一系統しかない陸の孤島だったから、自宅併設だった工房に通勤することになったのだから)

僕らは、オフクロの実家の隣にあった持ち物件であるところの木造アパートの二階に暮らした。一階にはカメラ店があって、その店の奥にカメラ店一家も暮らしていた。二階には2世帯が入居していて、僕らの隣は本牧のPX(米軍のスーパーマーケットのようなもの)で働く女性。コーンフレークをよく食べていて、僕は、中に入っている小さなプラモデルのおまけをよくもらっていた。
部屋は八畳二間と小さな水場で、トイレは共同、風呂は、オフクロの実家か、風呂屋だった。オヤジは一人で寝ていて、僕とヨコハマに来てから生まれた妹はオフクロと寝た。ここは水場に面した食堂でもあった。布団に入って電気を消すとまだ灯台として機能していたマリンタワーの緑と赤の光源がぐるぐると窓に光った。

何しろ当時のヨコハマの住宅事情は悪かった。内閣府が発行する「経済白書」に「もはや戦後ではない」との記載があったのは1953(昭和31)年だったが、ヨコハマでは1968(昭和43)年(前の大阪万博の2年前)になっても、「住宅統計調査」(総理府統計局)に「九畳未満/世帯、かつ2・5畳未満/人」と定義される「住宅難世帯」が13、300世帯と記載されている。それは横浜市の総世帯数の19%に当たった(6畳以下の狭所に住んでいる世帯も3万世帯に及んだ)。つまり、港物流や重工業の復興が優先され、人々の生活事情にお構いなく新たな労働者の大量流入を呼び込み、その一方で接収地の返還は遅々として進まない。そうした状況が、早期に復興していく企業活動と、いつまでも終戦直後のような市民生活というダブル・スタンダード(つまり「天国と地獄」だ)な状況を横浜市民に強いていた。

(横浜市って自治体は、今も、一時が万事こんな感じ。住民サービスは薄く、税金は安くないのに、子育ても介護もセルフ・サービス。公共事業は企業利益に回る。今もって、政令指定都市で唯一、まともな中学校給食がない)


「同級生」や「学校」

ばあちゃん(ひいばあちゃんじゃなくて)は、何事も「関数」的な考え方ができない人だった。「結核」を我田引水に解釈して、風邪などもらっては大ごとだと僕を近所の子どもたちから遠ざけた。近所の子どもたちと遊んでいても、夕方になる前に、なんとも迷惑顔で迎えに来た。そのうち、缶蹴りなどをやっていても、途中で抜けちゃうんだから、敬遠されるようになる。小学校に入る頃には完全に孤立していた。誘われないし、親たちもなんとなくよそよそしい。これが、ひいばあちゃんならなぁと、今でもそう思う。心配してくれていたのはわかるんだけど。

(ちなみに、新山下のじいちゃんはシベリア抑留からの生還者。でも、帰ってきたら故郷に居場所はなく、うちのオフクロの父親だったじいちゃんに愛想をつかされて離婚していたばあちゃんのところに婿養子でやってきた人だ。黙々と真面目に働き。怒らず、道端に放っておかれた鉢を世話して、見事に花を咲かせるような人だった。近所から浮いている孫に気を遣って、埠頭の飯場への配達に誘ってくれ、海を見ながらふたりでアイスクリームを舐めたり、肉まんをほうばったりした。今、ガーデン・シティの実験をする僕と植物との縁は、このじいちゃんから始まっている)

小学校低学年の頃、山手の丘に友だちを見つけるが、彼と遊んでいたことを理由に、僕は、ご町内の子どもたちから壮絶ないじめに遭うようになる。学校では、僕を椅子の上に立たせて、いじめっ子たちが、その机の脚を蹴る、だるま落としという「遊び」がつくられた。「フツウ」の子たちがそれを遠巻きにして笑っていた。
「フツウ」の子の「実像」というのは、こういうものなんだなと思うようになったのは、この頃だ。毎日、いじめっ子たちに胸ぐらを掴まれながら下校した。オフクロに相談したが「上手くやんな」と言われただけだった。

小学校四年になってオヤジが根岸に家を建て、引っ越して「いじめ」からは遠ざかった。幸運以外の何ものでもない。学区でいえば隣の学区に引越しただけだが「いじめ」は止んだ。びっくりするほど成績が上がった。

ただ、この頃には「同級生」や「学校」に警戒心を持ってしまっていた。幸い成績もよかったので「中学校から私立へ」という希望も頭をよぎったが、でも、オヤジが「学校は公立」主義だった。音楽学校に行ったオヤジ系の叔母が私立のお嬢さん学校に行って、やはり「いじめ」に苦労したことに拠った。

(このことは小さな頃から聞かされていたが、皮肉といえば皮肉だ)

だから、転校した早々から「どうやったら、いじめられないか」を考えるようになっていた。9歳や10歳の子どもが先のことを考えて戦略を組もうとするなんて、いかにも切ない。でも、当時の僕は真剣だった。
たぶん、この頃からすでに「『世間』向けの僕」を現出させ、生地の自分と使い分けるようになっていた。先生たちにウケるように学級委員になり、生徒会に目立つ活動をし成績も上位にキープ。クラブ活動にも熱心に取り組んだ。その一方で、同級生には人気者でいられるように配慮した。バックに「先生」がついている「教室カースト」の上位を狙ったんだと思う。

中学に入って4月の体育の授業、100メートル徒競走で、学年で一番の記録を出した。隣を走ったのはたまたま、転校する前の「いじめグループ」にいたヤツで、彼をごぼう抜きにしたのは大きかったと思う。実際「いじめ」とは縁が切れた。でも、警戒を解くことはなかった。影に回れば何を言われてるかわからないと思っていた。人気があったギター部に入って、フォークソングを唄い、職員室の隣が放送室で、クラスを離れ、授業以外は、そこにいても咎め立てされなかったので、放送委員会に所属した。

(放送室に居放しなことは、むしろ先生方からは「熱心だ」受け止められていたらしく、よくねぎらいの言葉をかけられた)

成績は学年で悪くて5番以内。二年生のときにはギター部の顧問でもあった教師からの誘いで1年だけバレーボール部に所属し、新人戦ながら、この学校では初めて市大会でベスト八に残って、県大会に進んだ。でも、あいかわらず「学校」は緊張を強いられる場所だった。

「街」へ

高校に入る頃には「日常」を嫌気して、近所を離れて都心にいた。さすがに中高生の含有量は少なかったからだ。

(高校も、歩いて10分の距離に公立としては学区一番の学校があったが、適当な理由をつけて、できる限り遠くの学校を選んで進学していた)

寺山修司氏が「書を捨てよ、町へ出よう」なら、僕は喫茶店に入っただけだったが、それでも、そこから「出会い」がはじまった。

ありがちに大人の真似をしてブラック・コーヒーを飲み、美味いとも思わなかったが、こんなもんなんだろうと思って喫茶店の客の一員になろうと努力していたんだと思う。

だいたい

僕はオヤジの家から見ても、オフクロの家から見ても「総領」で、僕を巡っての両家の綱引きがあった。そういうわけで、ふだんをヨコハマで過ごし、長期の休みを東京のオヤジの家で過ごすのを義務付けられていたが、つまり、僕は東京の同世代の学校生活(日常)を知らないし、ヨコハマの同級生たちの夏休みを知らないという状況に置かれていた。歳の瀬にはオフクロの店を手伝わされていたから、同級生たちとのクリスマスの思い出もない。そもそもクラスで孤立する条件は整っていた。

(もちろん「わが家」にも居心地はなかった)

中学の三年間で、いじめられないという知恵はつけたが、孤独なことには変わりがなかった。

だから、喫茶店にいて、常連だった兄貴分たちと交流を持つようになる。大人ぶりたい高校生なのだから、いい玩具になっていたのだろう。可愛がられていた。ギターコードを教えてもらい、レコードを紹介してもらい、マンデリンを教えてもらった、難しい本も紹介された。このことによって同級生とはますます距離が開いていくのだが、ようやく保護者に恵まれた感じがした。温かかったのである。

そういえば

こうした喫茶店コミュニティから知り合い直した同じ中学の先輩がいた。ふたつ年上なだけなのだが、そうとはとても思えない大人で気遣いができる、やさしい人。ときどき中華街の店の、ハウスバンドでウッド・ベースを弾いていた。後から知ったことだが、彼は、さる画家の息子さんで、その画家さんがお母さんとは別の女性に走って、お母さんは心に病を抱えてた。僕が知り合った頃、彼はお母さんと二人暮らしでちょうど修羅の真っ最中だった。ヤング・ケアラーの走り。彼を街で見かけたのは、お母さんの妹にあたる叔母さんがヘルプに入ったときのこと。つかの間の休息だったのだ。学校で見かけた記憶がないのも、その理由は「お母さん」に拠る。僕は、そういうことをテレビのドキュメンタリー番組で知った(彼は後年、銀座のギャラリーのオーナーになっていた)。

やっぱり街と孤独は相性がいい。

いずれにしても、僕も「街」に居た。

「三つ子の魂百まで」とはいうけれど
今でも「フツウ」と距離を置く、これが「僕のはじまり」だと思っている。

1983年 ヨコハマ関内

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