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プログラミング教育とはいうけれど

では、いまの日本はどうか。戦後の日本経済を支えてきた工業製品の製造拠点は東南アジアに移り、さらに今後はアフリカに移っていくであろう。そうしたなかで工業生産に代わる次世代の柱を生みだすだけの文化的充実がいまの日本にあるかといえば、答えは「ノー」である。ポテンシャルとしての伝統文化の強みはあるものの、すべてに述べたように弱体化は否定できず、活力を取りもどすには現代文化のパワーを必要とする。つまりは新旧の文化が融合しないと本当の活力は生まれない。
     青柳正規 著 「文化立国論 日本のソフトパワーの底力」より

まず注目していただきたいのは「工業製品の製造拠点は東南アジアに移り、さらに今後はアフリカに移っていくであろう。」の部分。「量産」の現場は、先進国となった国から海外へ流出する。消費者は「より良いものをより安く」と望み、先進国より発展途上国の方が人件費の相場が低いんだから、これが必定。同時に労働市場は国際化。AIとロボットによる「無人化」も人々の職場を奪っていく…単純に「記憶力」と「手際の良さ」というなら、彼らには敵わない。

そして、国内には、知価(情報)生産と細密な手業しか残らない。

でも、大半の国民は、そう簡単に次へと移行してゆけるわけではなく、工業生産時代の常識に取り残される。これがトランプさんを生み、安倍さんを隆盛へと押し上げた大きな理由でしょう。つまりは「ラスト・ベルト」な感じ。

大半の国民は、公的な支えによって今日の生活を維持してきた。公立の学校しかり、政府の指導を受ける工場しかり。そのために窮屈な「世間」にも忍従してきた。ただし、その「公的な支え」は工業生産であり「大量生産・大量消費」を前提に組み立てられていたもの。だから「憶えて、慣れる」なものでしたし、「みんな」という規範に従うもの。創造性や個性とは無縁のものだった。

これからは「公立の学校でもプログラミングの教育を」ということだけれど、これまた「憶えて、慣れる」なノウハウを提供されるものだったら、全く意味を持たないのはいうまでもない。でも「公立学校」という制度も現場の先生方の指導法も、たぶん工業生産時代の教育しか知らないでしょう。

ここをどう超えていくか。

お役所には無理かな。少なくとも後手に回ると考えた方がいいだろう。
実は「文化立国論 日本のソフトパワーの底力」は2015年に刊行された本だが、状況は、全く好転することなく今日に至っている。

仮に小さいお子さんの親御さんがいらしたら、セルフ・サービスをお薦めする。もちろん工業生産時代のノウハウじゃないんだから「ここへ行けばいい」というような塾があるわけではない。「プログラミング」教室に通わせる感じじゃなく、創り手や送り手の意識を持って(例えば)アートやデザインに触れさせる機会を増やすことだと。

何しろ、新しい情報(知価)を創り出すことが仕事になる時代が目の前だから。

そうしたいけれど「経済的、時間的なゆとりが」とおっしゃる方については、あえて「プログラミング教育」など無視して、板前さんや宮大工、家具職人さんなど、お子さんをできるだけ早期に手業の道へと導くことだ。手業は先人たちの一千年以上の蓄積によって世界に冠たる競争力を持つ。手業は唯一無二のものづくりを可能にする、つまり知価を産み出すもの。そして身につけてしまえば無資本でも身を起こすことができる、まさに「手に職」。喰っていくことに関して頼もしい味方になってくれる。

間も無く、時代の波は容赦なく襲ってくる。そして、この国の「公」は、今、そうしたことに無力。どうか自助努力を。