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友達が 1人もいない 再生力

 私には友達が1人もいない。その一般常識への宣戦布告ともとれる現状は常人ならば想像するだけで唾液に苦みが混じるほどの話なのだが友達が1人もいない状態を10年以上過ごして不思議なことに慣れてきたというよりも寂しさを司る細胞が無の境地へと昇華したのだった。

 そんな私の私生活はおそらく想像通りなのであるがまるで執行猶予中かの如く面白みのない生活を慎ましく送っている。仕事もまたしかりで職場では基本的に傍聴席の佇まいで最低限の仕事をこなしつつ最低限の給料をもらっているのだが今日上司に怒鳴られてしまった。

 その内容については専門的用語も混ざる話なので割愛して上司の言っていることもあながち間違いでもないのでその近辺に手ごろな硬いものをいくつかピックアップするだけに留めたのだが怒鳴られるというのは以前隣の部屋に住んでいた自称元ヤクザの無職のおじさんに「お前俺の部屋のファブリーズの位置変えたやろ」というだとしたら妖精の仕業としか思えない言いがかりをつけられたとき以来でおよそ数年ぶりだった。

 やはり怒鳴られるというのは友達が1人もいないという現状に鍛え上げられた腹筋がバキバキのメンタルでも多少ダメージがある。怒鳴られた瞬間は本当に羽ばたけるぐらいの鳥肌が立つし、しばらくの間は食事中に魚の骨がなぜかヘソに刺さったかのようななにが起きたか分からない鉛のような感情がドスンとのしかかってくる。

 そしてその出来事があって数時間後にある程度何が原因であのようなことになったのかという分析をあらかた済ませ今まさにこの記事を書いているのだがまずはっきりと言っておこう。そんなに悪いことをしてないのだ。

 自分でもこの答えを導きだせたことが不思議だった。昔の私だったらそんなノイローゼの原石となり得る素材があればすぐさま全て自分の責任だと思い込む自己嫌悪の黒魔術を完成させてしまったいたことだろう。だが今はどうだろう。「そんなに・・・」に押しとどめているのだ。これならば少々の暴食さえこなせば悪玉な感情は重曹で流すぐらいに綺麗に堕ちることだろう。

 ただこの友達が1人もいないという人としてのガラパゴスな環境から培った私のプラナリア的再生能力は果たして喜ばしいことなのだろうか?社会人として無責任という捉え方もできるし人が幸せに幸せに生きる上での最強の能力だという捉え方もできるだろう。どちらが正しいのかは今ところ皆目見当がつかないが長い人生の中でのんびりと導き出してみようと思う。

 


 

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