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宗教二世としての悩みの記録①

私はとある新興宗教の二世として生まれた。毎週日曜日は礼拝に行くのが当たり前だった。家でも教義の本を音読し、祈りを捧げる生活をしていた。それが当たり前だと小さい頃は思っていた。それから教えの中では自由に恋愛ができないし、お酒を飲んではいけない。子供の頃から親に言われることもあったけれども、教会に行くとそのような教育をたくさん受けた。そんなふうに生活していたが、小学生低学年くらいまでは自分が宗教二世で他の家庭とは違うということよくわかっていなかった。小学生高学年くらいになると、自分で考える力も身についてくるため、だんだん自分の家庭が周りとは違うことに気づき始めた。

宗教二世としての悩みとして自分が覚えている限りで一番始めに悩んだことといえば、たぶん部活だと思う。小学生と違って中学生からは部活に入部するのが普通だと思う。だが、教会から、教会の活動に専念するために部活には入部しないようにと教育を受けた。親に言われたというよりは教会にいた人たちに言われたことが大きい。教会での活動とは次のような感じだ。

教会での活動は小学生までは毎週日曜日に礼拝に行く、土曜日も教えを勉強する勉強会があったくらいだった。しかし、中学生から本格的になり、一種の部活のような形に変わった。中学~高校までの学生が部活のような感じで毎週土日だけでなく平日も2日は教会に集まり活動する。土日は教会で季節ごとに行われる学生イベントみたいなものがあるのでそれに向けての活動が主だった。平日の夜も教会に集まって活動していたのだが、1日は勉強を一緒にする勉強会(これは教えではなくいわゆる学校の教科の勉強)、1日は教えを学ぶ集会だった。とにかく中高生になると急に活動量が増え忙しくなるのだ。

部活のことに話を戻す。教会では小学6年生の時から中高生のお兄さん、お姉さんに勧誘?というか部活入らないで教会の活動しようよって感じで誘われる。初めは、たぶんただ楽しく一緒に遊んでくれるお姉さんがいるのが嬉しくて楽しいからという理由で参加していた。本当は小学6年生の時に仲良かった友達に部活一緒に入ろうよと誘われていたから一緒に入るつもりだった。しかし、私は教会の活動を選択し部活には入らなかったのだ。今思えば、なぜ部活に入らなかったのだろうかと思うが、小学6年生の私にはいろいろあれこれと考える思考はまだなかったのだと思う。なぜ私が部活に入るという選択肢を選ばなかったのか今振り返って思うのは、先ほど言ったように単純に教会に行くのが楽しかったこと。それと大きいのは教会の大人に教会の活動は善である、部活等の外の活動(教会以外での活動)に参加するのは悪であるというような教育を受けたことが原因だと思う。そのような教育を受けた私はいつの間にか、いわゆる洗脳という状態に陥っていたのかもしれない。

そんな感じで部活に入らなかった私は中学生からは本格的に教会の活動をしていくことになる。部活に入るか入らないか、この選択をしたのはもちろん自分自身だ。しかし、まだ幼い12歳の私には何が正しくて何が間違っているということもよくわからなかったので、宗教が原因で部活という選択を狭められてしまったことはとても悔しい。このように教会の大人からある種、強制されるような形で部活に入ることができなかったという事実から、宗教は個人の選択、考えを奪ってしまうのではないかと思ってしまう。今では部活に入らず教会の活動をしたからこそ分かったこともあるし、全ての経験は今の自分につながっているとプラスに捉えることができている。けれども、やはりこのように宗教により思考や考えを奪われ、選択を狭められてしまったという事実があることには変わりはない。私はどんな人にも選択する権利、人としての権利があると思う。何を信じて生きるのか。それは子供であれ、大人であれ、年齢なんて関係なく守られるべきものだと思う。だからこそ、宗教二世にも人権というか、信仰の自由というか、そういったものを与えてくれないものかと思う。

第1回はこのへんで終わりにしよう。この宗教二世としての悩みの記録はいろいろ今後も書き記したい。

※これは私の個人的な意見です。いろんな意見の方がいると思いますが、一意見として捉えてもらえたら嬉しく思います。

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