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『だから、本をちゃんと読めるようになりたいんだよ。という悪あがき』

自分の本の読み方について、少し思うところがあり、整理してみた。

本が読めない、という問題は、ここ10年以上にわたってかなりしんどい課題だったのだけれど、――というか今も継続的にしんどい問題なのだが――、『頑張って読む』は解決方法としてはかなりの悪手だぞ、ということに最近やっと気づいた。
ほんと今更なんだけど。

自分のことを、ちゃんと言語化するって大事くね?

と気づいたのは、思いがけず自分の身体感覚について、言語化して整理する機会を持ったことがきっかけだ。

自分のことを言語化するって、ほんとはやったほうがいい感じのやつ?
という、あたりまえといえばあたりまえなことに、やっときちんと向き合う気になったというか。

善かれ悪しかれ、僕は自分自身の内的な問題を、力づくで解決しようとする傾向が強い。
それは、たいていのトラブルは知的な膂力とありあまる体力で解決できてしまっていた前半生の、偏った学習の結果でもある。
頑張ればなんとかなる、という思想は、体力も、脳のキャパシティも失った身体には毒でしかない。
それを頭では理解しながら、抜け出せないまま十年以上を過ごしてきた。
ずいぶん遠回りをしてしまった、という気もするけれど、いずれにしろ気づく機会を得られたことは僥倖だった。


単純に『本が読めない』といっても、そこにはいくつものレイヤーがある。
そもそも、自分が使用する『読めない』という言葉自体、かなり意味合いに濃淡がある。

そこで、自分が『読めない』と表現する状態のバリエーションについて分類し、濃淡に応じて階層化してみた。

読めなさの分類と階層

A.本そのもの可読性と身体、環境、モチベーションのコントラストによっておこる『読めない』

(1)単語は識別できるのに何が書いてあるかわからない。

(2)理解しながら読み進めることはなんとか可能だが、読み進めるのに努力を要し、没入感が得られない。

(3)内容は理解でき、やや読むのが大変なりになんとなくの没入感もあるが、中断すると再開が難しいぐらいの負担感がある。

(4)さほど頑張らなくても意味を把握でき、それなりの没入感もあるが、映像や音や空間や概念が意識しないと立体的に立ち上がらない。読むという行為の奥行きが限定されている。

(5)映像や空間や概念を、強く意識しなくともある程度立体的に処理しながら読むことができるが、知識や思考や感情などの当該の文章の外に広がる奥行きと連動させつつ、同時並行的に処理することは難しい。

このゾーンを抜けると、あらゆる意味において読めている、と感じる状態に至る。


B.脳のワーキングメモリのキャパシティ超過を解消するために時間をおかざるを得ない『読めない』
ある程度以上の没入感を以って読み進められるが、感情や記憶を一定以上刺激するワードに出会うと、そのことで頭がいっぱいになって落ち着くまで休憩が必要になる。
C.処理速度のみを評価した『読めない』
読む速度が以前よりも格段に遅い。だいたい5から10倍の時間を要する。

数字が小さければ小さいほど、より『読めない』状態である。

B 、Cは、階層化したものとは、方向性が少し違う。
それぞれワーキングメモリや、脳の処理速度に独立して依存する問題なので、自分にとっての読みやすい範囲が広がるうちに、連動して少しづつ解決されていく可能性がある。
よって、優先順位は比較的低い。


次に、読みやすさを決定する諸条件を書き出す。

読みやすさを決定する条件

(a)疲労度などの変動しやすい「身体状態」
(b)他者や音や空間などの「環境」
(c)対象物が自分にとって読みやすい文かどうかという「可読性」
(d)対象物を読みたいという「モチベーション」

これらの条件がすべて連動することにより、そのときどの程度読めるかが決定される。
現状(1)から(5)の『読めない』の間を常時うろうろしており、十何年を経て、(5)をクリアしたことはまだない。

年に片手以下の冊数しか読めない、という状態は、1日1冊みたいなライフスタイルだった頃の自己像のせいで、かなりダメージが大きかった。
そこに、冊数を読めなくなっても、読みたい本の数が減るわけではないという現状が追い打ちをかける。
嗜好上、比較的厚くて密度の高い本が多いというのも、読書効率を下げていたように思う。

これまで、本を選ぶ基準は今まで通りで、(a)「身体状態」や、(b)「環境」ばかりを優先的な判断基準にしてきたのだが、それで思うようにいっていないということは、(c)「可読性」(d)「モチベーション」を、もっと優先する必要があるということだ。

そこで、よりスムーズに没入感をもって読める本、にフォーカスしてもいいんじゃないかな、と思うに至った。
上記の分類でいうならば、(4)以上の水準で読める本を選ぶ。
つまり、それなりにさらっと読めて、まあまあ以上の没入感をもてる本に絞り込んで数をこなすということである。

自分の現状を顧みると、読まなければいけない本を優先して、結果的にしんどい割に進まず、手が止まっているケースが多い。
読む量が少ないということは、すなわちリハビリの回数が少ないというのと同義だ。

リハビリを考えるなら、読むハードルが高い本を年に数冊読むより、さらっと読める本を週1で読んだ方が良いはずだ。
一回上げるのが限界の重量を年に数回しか上げられないと悩むより、10回づつ挙げられる重量を毎週上げた方が、確実に筋力がつくはずである。


では、自分にとって読みやすい本とは、どんな本だろうか。
さきほど『読めない』度合いを(1)~(5)の数値で書き出したので、
(c)「可読性」(d)「モチベーション」に基づいて分類してみる。

「可読性」と「モチベーション」

Ⅰ.読みやすくテンションも上がる「可読性/高」「モチベーション/高」(ex.平易な娯楽読み物全般)→(1)~(5)

Ⅱ.読みにくいがテンションは上がる「可読性/低」「モチベーション/高」(ex.興味のある論考、外国語の記事など)→(1)~(3)

Ⅲ.読みやすいがテンションは上がらない「可読性/高」「モチベーション/低」
(ex.平易だが興味のない本)→(1)~(4)

Ⅳ.読みにくくテンションも上がらない「可読性/低」「モチベーション/低」
(ex.行政文書、興味のない外国語文書等)→(1)~(2)

[図表1]

スライド2


Ⅲ、Ⅳはこれまでも極力放棄してきたので、原則見ないふりをする。
やむを得なければ読むけど。

問題は、Ⅱである。読みたい気持ちは十分にあるのだが、読もうとすると、(1)から(3)の状態となり、けっこうしんどいうえに進まない。これが、読書量が増えない原因だった。

なので、この際、Ⅰをいっぱい読む方向にシフトしたい。

[図表2]

スライド3

これまでⅡをⅠの領域に持っていきたいがために悪戦苦闘していたけれど、ここらでⅡにばかりかまけて時間と余力を浪費するのはやめにしよう。
Ⅰをたくさん読みつつ、徐々に難易度を上げることによって、Ⅱの領域にあった本も少しづつⅠの領域に移行できるような気がするし。


ならば、読もうとしているその本が、どの位置にあるのか自分で可視化できるようになった方がいい。

「可読性」と「モチベーション」にそれぞれ高低で1から5までの数字を割り振って、(可読性,モチベーション)の形で座標にマッピングする。
「可読性」と「モチベーション」の数字の合計が大きければ大きいほど、読みやすいと言える。

京極夏彦氏の、妖怪シリーズを例にしてみよう。

(X軸:可読性,y軸:モチベーション)

[図表3]

スライド4

『姑獲鳥の夏』の初回時なら(3,5)
『陰摩羅鬼の瑕』の再読なら(4,4)
通称『薔薇十字探偵シリーズ』なら何回読んでも(5,5)である。

Ⅰの領域外、つまり、一つでも数字が3に満たなかった本は、原則として読まないことにする。
「可読性」よりも「モチベーション」を優先するものとする。
したがって、(4,5)と(5,4)なら、(5,4)の本を優先する。

この判断基準に則れば、自分にとってリハビリに有効かつ、読みやすい本を選びやすくなるんじゃないだろうか。


最後に。

読みやすい本の選び方がはっきりしたところで、次になにを追求すべきかといえば、読書の質だろう。
筋トレに例えるなら、かける負荷の大きさが決まったところで、身体のコンディションや環境を良くして、正しいトレーニング時の姿勢や意識すべき筋肉の位置など、よりよいフォームを身につける、ということである。

ただし、質の向上については、まだまだ模索中なので別の機会に改めて、じっくり検討できたらなと思う。


ところで、社会人失格なんで、実は今回初めてパワポで図表を作成してみたんだけど、意識高い系社会人気分を味わえて楽しいなこれ。

[自分でも満足している図表4]

スライド5


金銭を与えると確実にえさ代になります。内訳はだいたい、本とコーヒーとおやつです。