この世は美しい:『よろこびの書』

私が人生の指針として大事にしている言葉のひとつに「この世は美しい。生きる価値がある」という言葉がある。知人に教えてもらった、ヘミングウェイの言葉「The world is a fine place and worth the fighting for.(この世は素晴らしい。戦う価値がある)」をもじっている。

私自身、無意識に「人生は戦いだ」という信念を持っていたことがある。そのことに気づいたときには、え?私、そんなことを信じているんだ!と驚きと同時に、そうだろうなぁと思う妙な納得感もあった。生きるのってしんどいよなぁと思っていたときもあったから。

今は戦う価値よりも生きる価値としたいと思ってはいる。だけれど、内心では、本当にこの世は美しいと言えるのか、生きる価値があるのかと疑う部分もある。そう思うような出来事も、世の中にはたくさんあふれていると思うから。ひとつの例として挙げてみても子どもの虐待など、もちろん虐待した親のしたことは許されないことではあるけれど親だけを責めては何も解決しないような、理不尽なことが存在するとも感じている。そういう、自分の力では直接どうしようもできない出来事を知ると、同時に無力感もやってくる。

いくら私自身が幸せに生きていたとしても、世界には、純粋に迷いなく「この世は美しい」と思えないことや理不尽なことも多々あって見聞きしたりはする。けれど、だからといって私の目を背けることでそれらの出来事がこの世に起きていないことにはしたくない。だから、この言葉をスルメのように、しみじみと噛み締めながら一歩一歩、一日一日、私にできることを過ごすことが大事なことだと感じているから、この言葉を掲げて常に思い出すようにしている。


そして同時に勇気を分けてくれるのが、このお二人の対話だ。比較する必要はないし比較することすらおこがましいけれど、私が持っている、限定的なちっぽけな愛と比べ物にならないほどの大きな愛を持つと同時に、私が経験している悲しみと比べ物にならないほどの悲しみをも体験している、チベット仏教の精神的支柱であるダライ・ラマ法王と、南ア、アパルトヘイト解放活動を推進したデズモンド・ツツ大主教の二人の対話だ。


ふたりは真面目で真剣なだけではなくて、ふざけあっているのも、この本の素晴らしいところであり、勇気づけられるところだ。10ページに、互いに抱擁し、ダライ・ラマ法王がデズモンド・ツツ大主教にキスを送るかのように唇をすぼめている写真がある。口をすぼめているダライ・ラマ法王もチャーミングだし、デズモンド・ツツ大主教もダライ・ラマ法王の顎に手を当てて、若干阻止しているようにも見えるところがお茶目に見える。

この写真は思い出させてくれる。そうだ、そうだ。この世は美しい、と眉間にシワを寄せて思っているのではまた違う。生きている世の中に厳しさを見出そうが優しさを見出そうが、お茶目さを発揮したり、表現すること。ふっと笑える隙間をつくること。美しくない笑顔なんてない。美しさはそういう笑顔のところに宿るんだよ、とたった1枚の写真からも教えられている気がする。

慣例の大主教のお祈りの後、最後の対話が始まった。
「大主教、法王、『よろこびの書』の準備をするために、この対話に参加できたことは、信じられないほどの喜びと名誉なことでした。本日は、ほんの二、三、最後の質問をしたいと思います。私たちが受け取った質問の一つは、“今、『よろこびの書』を書くことが、なぜ重要だと思うのですか?その本が世界中の読者のためにどんな貢献を果たすことを期待しますか?”と言うものです」
大主教がそれに答えた。「神の子供たちが遺産を引き継ぎ、より大きな物事を成し遂げ、自分の力を存分に発揮できるよう手助けする代理人になるのが望みです。そして、寛大で思いやりを持ち、人に親切にしていれば、大きな満足を得られることに気づいてもらいたいのです。
あなた方が最終的に喜びを感じるのは、ごく自然に、恵まれない人を助けたり、他人に親切にしたり、他人のためになることをしたりする時です」(276ページ)

この部分でぐっとくるところが2つある。まず「代理人」という言葉と、2つ目に「ごく自然に」という言葉だ。1つ目の「代理人」という言葉は、大主教ご自身がそういう意味を込めているかどうかは定かではないけれど、主役が神の子たち、つまりあなたたちですよ、という気持ちが現れている気がするのだ。(キリスト教に疎いのだけれど、大主教の役割として代理人みたいな側面、意味があるのだろうか?)私が人をサポート(コーチング)するときにも、その気持ちを絶対に心に留めておきたいと思っている。コーチングを通してモノの見方をガイドしたり、視点を変えてみるといった補足をしてみたり、盲点に気づいたり、そういう効果というのは自分がクライアントとして受けていても絶大だとは思う。だけれど、他人に提供するとき、その成果はどう考えても私のものではない。

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』でも「真の影響力は、あからさまな強さや意志ではない。影響力は、あまりに自然でだれも疑問を持たないような世界をつくりあげるところから生じる。老子のいう聖人は、このようにして絶大な影響力を振るう(139ページ)」と語られている。ちょっと批判めいてしまうかもしれないけれど、コーチとしていい視点を提供したでしょう?いい方向へ導いたでしょう?という気持ちがにじみ出るようなものは、私の目指すところではない。何をされたか分からない、なんだかよく分からないけれど、コーチのおかげじゃなくて自分の力でこのことにたどり着いたのかな?くらいでちょうどいいのではと思う。人生の主役はその人本人なのだから。だからクライアントは自分の足でまた一歩を歩み出せるのだ。「代理人」という言葉から、そんなことを思う。


そして、2つ目の「ごく自然に」という言葉にも深さを感じる。人を助けたり、他人に親切にしたり、他人のためになるようなことを、気張って、大きな顔でやっているのでは、大主教が語る「よろこび」には程遠いのだ。それは「他人のため」という皮を被った「自分のため」だ。もちろんそれも、悪くない。何もやらないより、やったほうがいい。好きな話の一つに俳優の杉良太郎さんの話がある。杉良太郎さんが社会貢献活動を活発にされていて、意地悪な記者に「その行為は売名のためですよね」と言われたときに「そうだよ、君もやってみたらどうだね?」と返した、という話だ。真偽のほどは分からないし、都市伝説のひとつかもしれない。本当だとしたら、そもそも杉良太郎さんの場合は「自分のため」だけであるようには私には思えないけれど、記者に「『他人のため』という皮を被った『自分のため』ですよね」と言われて「自分のためでも、やったほうがよくない?君も自分のためにやったらどう?」という余裕が好きだ。ただ、杉さんのように余裕がなければ本来ならば人を助けるという行為が「自分がこんなにがんばっているのに…」というふうに自分を苦しめることにもつながりかねない。だからこそ、大主教がさらっと付け加えられている「ごく自然に」という副詞が非常に重要になってくる。

なにもやっていないところからやり始めるには、一生懸命さとか努力とか、ちょっと踏ん張りみたいなものが発揮されたり、必要なときもあるかもしれない。(私の理想は「気づいたらやっている」ではあるけれど)ちょっとがんばりすぎがちな部分を持ち合わせている私としては、がんばるときはあるとしても、その先に「ごく自然に」という世界があるのだと見据えておきたい。そういえば、上記で紹介した老子の影響力についても「ごく自然に」という形容はぴったりだ。「ごく自然に」は大事なエッセンスなんだ。

ダライ・ラマは、次に、なぜ『よろこびの書』を書きたかったのか、なぜ「今なのか」の話題に戻った。「私たちは学んでいます。1996年、私は聴衆の一人として、高齢のクイーンマザー(エリザベス女王の母)をお迎えしました。そのとき、彼女は96歳でした。私は子供の頃から彼女の丸顔を写真で見ていたので、親近感を抱いていました。それで、お会いするのを楽しみにしていました。私は彼女に尋ねました。“あなたは20世紀をほぼ丸ごと目撃してきたのでお尋ねしますが、世界はより良くなりつつあると思いますか。それとも、悪くなりつつあると思いますか、それとも、同じところにとどまっていると思いますか?”
よくなりつつある、躊躇せずに彼女はそう答えました。彼女が若い頃には、人権の概念も、自己決定権の概念も一切なかった。今では、それらのことが普遍のものとなっています。彼女は、世界がより良くなっていることを示す二つの例として、人権や自己決定権のことを話してくれたのです。(279ページ)


人類は似たような過ちを繰り返す。歴史から学べないのかとうんざりするときもある。人の残酷さや愚かさに辟易するときもある。でも、たしかに、ここでクイーンマザーが語られているように、着実に進歩している部分もある。

自分も同じ人間であることを棚に上げて、人間にうんざりしているとき『暴力の人類史』を紹介してもらった。紀元前5000年頃までさかのぼって近代まで、どれだけ人が暴力を奮ってきたのかという歴史を振り返る冒頭の部分だけで、あ、人は進歩しているのかもしれない、と思い直すには十分だった。確かに、日本においても、近年犯罪率が増加しているように感じる部分は、媒体の変化によりニュースが瞬く間に世間に広がるようになったこと、犯罪率のグラフの一部だけを切り抜いてあたかも上昇しているように見える工夫(?)によるものだというのを見たことがある。

ジェンダーにも少し関心があって『女性差別はどうつくられてきたか』(集英社新書)も読んでみた。確かに、今の問題点を知るために、歴史を振り返るのよかった。西洋は西洋で、えげつない抑圧のされ方を近年まで女性は受けていたことが分かった。現時点で抑圧からの解放が十分だとは言えないし、まだまだ意識の改善や取り組みは必要なことは承知の上で、よくなってきているんだということも分かった。

人間とはいったい、なんというキメラなのか。なんという新奇なもの、なんという怪物、なんという混沌、なんという矛盾、なんという脅異であることか。あらゆるものの審判者でありながら愚かなみみずでもあり、真理の保持者でありながら不確実と誤謬の巣窟でもあり、宇宙の栄光でありながら、その屑でもあるとは。ブレイズ・パスカル「パンセ」(『暴力の人類史』10ページより引用)

人ひとり見ても、親切な部分もあれば非情な部分も持ち合わせている。怒りや憎しみといった感情があるからこそ、それを排除するのではなく乗り越えようと努力する。どちらか一方だけというのはなく、両方あるというのが世界の真理なんだろう。だから、世界は暴力的でも理不尽でもあり、愛に溢れてもいて美しくもある。

「この世は美しい。生きる価値がある」今日も掲げて一歩進む。


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