私は人間だ。ハラスメントとは、人をモノのように扱うことだ。
ハラスメントに苦しむ友人の声を聞いた。以来、心身の平衡が崩れている。ゆるせない、と思うほどに湧いてくる醜い蛆虫が心にたかる。ずっと心身が優れない。
ハラスメントは、人をモノのように扱う行為だ。性的な消費物として、市場交換の商品として、政治の駒として。
しかし、私たちはモノではない。人間だ。私たちは人間として扱われたいと思っている。「この人と新しい物語を始めたい」と思ってもらいたいのだ。
友人は、信用していた人なのにどうして、と嘆いていた。
信用の一番の基盤は、相手を人間として好きだと思う気持ちにあるのだと思う。好きな相手であれば、過ちをゆるすことができるからだ。
「これまでの実績の積み重ねだ」と信用を考える人は、一度のやらかしで信用はたやすく崩れると言う。
「法的に保障されているものだ」と言う人は、一度の違法から立ち直る術を教えない。
どれだけ実績を積んでも、どれだけコンプライアンスを遵守してきても、過ちをゆるしてもらえなければ直ぐに崩れてしまうものを信用などと呼んでも虚しい。
人をモノとして扱う人間が真に信用されることはない。モノとして扱ってくる人間と新しい物語を始めることはできないからだ。
故に、彼が過ちを犯したときに許されたとしても、それは「権力者だから」「金があるから」程度の理由でしかない。
「あなただから」という人間扱いはされず、ただ人間から疎外されるだけだ。
ハラスメントをする人は言葉遣いに問題がある。人間に対してモノの隠喩を使うことにためらいがない。「君を売り込みたい」――私は商品ではない。「君は本当に使える」――私は道具ではない。「君は戦力だ」――私は兵器ではない。「君を借りてきてよかった」――私は私有物ではない。
人間をモノ扱いする人は、自分自身も人間と思えなくなる。人間同士の関係を、モノとモノの関係としか見えなくなる。そこには市場の非情な交換しかない。「私を踏み台にしてくれ」――あなたは建築物ではない。
ハラスメントは、自分をモノだと思いこんでいる人が、当然のように相手もモノだろうと決め込んでいるから起きると思っている。
愛を知らないのだろう。
そう思うのは、人が信用を失うことをしてもゆるされる唯一の場面は、法律でも業績でもなく、愛の関係だからだ。愛を知らずに還暦過ぎまで生きてしまったというのなら哀れに思う。
「私はモノではない!人間なんだ!」という叫びは承認欲求と呼ばれている。人を人間として扱うことができない人間に管理される組織には悲劇しか生まれないだろう。自分を含めすべてをモノとしか扱えないのなら、ハラスメントは絶えないだろう。
そして、モノ同士の関係にゆるしは生まれないから、コンプライアンスと監視で縛り付けるしかなくなる。ゆるしというものには「あなたがあなただからゆるすよ」という形しかないからだ。
お互いを人間として扱うということが、そんなに難しいことなのだろうか。もし難しいのならばそれはなぜなのか、どうしたらいいのか、知りたい。
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