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芒種(ボーシュー)の飢餓(ガシ) 祖母に養う一家あり

数日続いていた梅雨晴れ間も昨日の午後までで、晩には激しい雷雨となりました。

今日の午前中も1時間ほど、豪雨といってもいいほどの大雨が降り、県内のいくつかの市町村には大雨洪水警報が発令されています。

二十四節気でいえば、芒種(ぼうしゅ)。芒種の一つ前の小満(しょうまん)の頃から当地では梅雨に入り、芒種が終わる夏至の頃まで続きます。

ちなみに、梅雨にあたるウチナーグチ「小満芒種(スーマンボースー)」はここから来ています。


昨年の芒種の頃、施設に入居している老母を訪ねた時、窓の外は雨でした。

認知症がゆっくりと進行しつつある母は、今日が何月何日か、ということが

わからなくなっています。

症状が軽い日は、壁のカレンダーや置き時計のデジタル表示を見て

月日を答えることもできますが、

頭に霧がかかる日は、カレンダーを見ることも思いつかず、

肌感覚で返答します。


ある五月晴れの日のこと。

当地にしては湿度も低く、気温も涼しく、

母はその肌感覚で「12月?」と答えました。

その母が、続く雨による肌感覚なのか、

記憶も鮮やかに思い出したのが、

「ボーシューのガシ(芒種の飢餓)」でした。


「ボーシュー」とは、母の生まれ島の言葉で「芒種」(沖縄島での発音、

「ボースー」ともちょっと違いますね)のこと、

「ガシ」は「餓死」から来た言葉でしょうが、

用法としては「食糧不足」、「不作」、「飢饉」くらいの意味です。

老いた母には、「梅雨」という標準語的な言い方よりも、

幼いころに生活の中でおぼえた「ボーシュー」の方が

自然と言の葉になるのでしょう。


「ガシ」(食糧不足)も毎年この時期になると恒常的に起きていたようで、

梅雨どきの長雨が、86歳、お昼ごはんのメニューを忘れる老女の

肌感覚を刺激して、

幼い記憶の底の底からひょいと

ボーシューのガシを釣り上げたのだと思われます。

(私も60年近くこの人の息子をやってきた中で、初めて聞く話でした)


母の父親は教師でした。

月給という固定収入がある分、

当時としては恵まれていたのでしょうが、

妻と子供7人の大家族、

その上、周りに困っている人がいると放っておけない性格で、

道で行き合った人に

手持ちのお金がないからと

着ていたものを脱いで差し出すほどの徹底ぶりだったそう。

母の母(私にとっては祖母)は、

夫や子供を飢えさせないため、

そこここに散らばった数十アールの畑を耕し、

数十羽のニワトリを飼い、

毎日まいにち働いていたとのことです。

全般に土地の痩せたサンゴ礁の島ですが、

それでも畑ではサツマイモ、黒豆、大豆、かぼちゃ、ゴマ、ウリ類、

さらに葉物野菜や根菜類が採れ、

家族のお腹を満たしていました。

また、公務員にはお米の配給もありました。

(ここまでは今までにも聞いた話です。)


ただし、芒種(ボーシュー)の頃は

長雨で作物がほとんど採れません。

そこで祖母は、毎年やってくるガシ(食糧不足)に対する備えを

入念に行っていたようです。


豚肉の塩漬けや豆類の備蓄はもちろん、

サツマイモから保存食を作るのが重要で、

一つには干しイモ。

スライスして乾燥しやすくしたイモを天日干しします。

(これは今でも全国的にスーパーで売っています。)

驚くことに、当時、イモのスライスを請負う職人がいたとのこと。

たぶん、技術だけでなく、専用の道具もあったのでしょう。


もう一つ、サツマイモを原料とした保存食、デンプンを抽出します。

おろしたサツマイモを水にさらし、

しぼって乾燥させ、

ウムクジ(イモくず=イモデンプンの粉)を作ります。

食べる時は水に溶かしておやき風にしたり、

油で揚げれば餅のような食感になります。


それでもどうしようもない時には

ソテツの実や幹から採ったデンプンで飢えを凌いだそうです。

ご存知の方も多いでしょうが、

ソテツには猛毒があります。

水にさらしたり、発酵させたりと

手間をかけて毒抜きをしなければ中毒死の危険があります。

命がけの救荒食というわけです。

実際、大正時代の沖縄では、

第一次世界大戦後の不況時に

「ソテツ地獄」といわれる状況がありました

(ソテツまでも食べるしかないほどの苦境、という意味らしいです)


ソテツ食の危険性について母にたずねると、

食べる前にはまずは家畜に与えて

安全性を確認したとのこと。

ただし、切羽詰まっていて

手間ひまをかけるゆとりがないとか、

家畜を飼う経済的余裕がない、

といった貧しい家族が犠牲になることが

あったとのことでした。


その時は、犠牲になった人たちのことも抽象的に受け止めていました。

母もそれ以上のことはよく憶えていない様子でした。

ところが先日、叔母(母の3歳下の妹)と電話で話した時に

時候がら昔の梅雨どきの話になり、

叔母の口から、彼女が小学生のときに、

同級生の「宮城くん」(叔母はフルネームで憶えていました)の

一家8名全員が、

ソテツ中毒で亡くなった、と聞きました。

幼い叔母にとって、大変な衝撃だったようで、

野辺の送りで、

犠牲となった貧しい8人家族の末っ子だった宮城くんの

小さく粗末な棺が葬列の末尾についていく場面を

今でも鮮明に憶えているとのことでした。

叔母の年齢からして、たぶん終戦直後のころのことでしょう。


老母に話を戻すと、

もともと母親(私の祖母)に反抗してきた人でした。

母親に対する大きな不満の一つは、

自分を虚弱に生んだこと(だからろくな教育も受けていない)、

というのがあり、

いくらなんでもそれは無茶な恨み方だと私は思っていました。


ところが最近は、祖母の苦労をよく思い出しているようです。

離島県沖縄の、離島の離島

(比較的大きな離島のそのまた離島)に

医学の恩恵も十分でなく、

やがてこの辺鄙な島にまで

戦(いくさ)も来ようという時代に生を受けた

ひとりの虚弱な女の子が、

曲がりなりにも成人し、

家族を持ったのも

祖母のおかげだ、ということも口にするようになりました。

(ちなみに母は今月87歳の誕生日を迎えました。)


もともと母は、父親(私の祖父)のことは、

母親との比較の中で高く評価していましたが、

最近では父母の評価のバランスが公平に取れてきた印象です。


人生の最晩年に母親を許しつつある母。

「あちらで再会するのが楽しみ」という母。

ああそうか、

母が許せなかったのは実は自分自身で、

いま自分を許しつつあるんだろうなあ。


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