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交差点では, レトロかつシンプルに

一昨日, 25卒の方に向けた就活イベントに登壇した。


人生の岐路に立ち, 

焦りと不安が混じりながら,
質問を重ねる学生さんの顔を見ていて

自分にできることは何か,
色々考えながら回答していた。



どうやって持ち駒を管理していましたか。

5社程度しか受けなかったので,
管理という管理はしていませんでした。


あと, 持ち駒という呼び方はしませんでした。

ここは個人の自由だと思いますが, 仮に企業さんに,
自分のことを「持ち駒」と呼ばれていたら嫌だなと思ったので。


ウケるESってどんなものだと考えてますか。

相手に合わせるのではなく, 
自分をできる限りそのまま表現する文章を書いて

落ちてしまったらそれまでと考えていました。


ウケたらラッキーくらいで, 
第一優先は自分を表現することでした。


誰を頼ったり, お手本にしましたか。

自分の人生の選択なので,
誰にも頼らずに好き勝手に進めました。



質問者の意図に沿う回答ではなかったと思う。


それでも自分なりに,
伝わればいいなと思うことがあって,

誠心誠意回答した。


逆張りみたいな回答で何を伝えたかったのか。

それは, レトロかつシンプルな視点を持つことだ。


まとまりはないが, 書いていきたい。



就活をしていると楽しいこともある。


選考を通過すると素直に嬉しいし,
大学や経験でチヤホヤされることだってある。

人によっては面接で話すこと自体が
楽しいという人もいるだろう。


一方で, 就活をしていると辛いこともある。

選考に落ちると大なり小なり苦しいし, 
次に応募するとき「落選するかも…」と頭によぎる。

ESに書けることがなくて後悔することもあるし, 
初対面の人と話すことが苦手な人もいる。


僕も何名からか相談を受け,
微力ながら一緒に悩んだ経験がある。


疑問が浮かび, ぐるぐると考え, 
でも何も前に進まずに自己嫌悪に陥る。

そんな姿を見てきた。


きっと人生を生きていく上で, 
そんな場面を何度も経験してゆくのだろう。

決して就活に限った話ではない。


そんなとき場面場面で立ち上がる一つ一つの問いに,
目先の答えを出し続けるのは容易ではない。 

人に聞いて楽をしたいときもあるだろう。


しかしそれは, 個別の事例に対応する

便利なアプリケーションを
その都度インストールするようなもので

いつか歪みが生じ, 容量を超える時が来る。


冒頭の就活イベントでの回答は, 
そんな意図を込めたものだった。



人生の中で大きな問いが立ち上がったとき,

僕は三つの視点から解法を探ることが多い。


奇抜なものではなく, 
レトロで, そしてシンプルなものだ。


就活を通じたいくつかの自分の経験を例に, 
それぞれの視点を見ていきたい。


就活について尋ねると, 先輩は口を揃えて言った。

  • 業界を絞った方が良い

  • 就活の軸を決めた方が良い

  • 企業にウケるようにESを書いた方が良い

  • OB訪問をした方が良い


しかし, こうしたテンプレ的なアドバイスは,
結果的にほとんど参考にならなかった。


癖である逆張りが出たのもあるが, 
自分なりに考えての結果である。


最初に考えたのは

「本当にそうか?本質は何か?」

ということだった。


答えは簡単だった。

業界 / 軸 / ES / OB訪問など,
これらをした方が良いかどうか, 

それは人によるとしか言いようがない。


なぜ人によるのか。

なぜ就活をするか, その目的が違うからだ。



僕は今までの人生を通じて, 
自分に水をあげてきた感覚がある。


自分という種をこの環境に置いたら, 

どんな花が咲くのか。
あるいは咲かないのか。


咲かなくても全然問題ないと思って生きてきた。
その観察日記も, それはそれで面白いからだ。

花が咲くことだけが, 栽培の醍醐味ではない。


僕にとって就活とはその一環でしかなかった。

とにかく受かりたいわけではない。


自分というものを前面に出して, 
好き勝手にやってみて, 

肯定されるのか, 否定されるのか。

そんな一種の実験でしかなかった。


だから, アドバイスをもらったことは
やってみて楽しかったら続けた。 嫌だったらやめた。

本能に聞いてみて, なんとなくで判断した。


「〇〇した方が良い」という,
エセ論理的, 短絡的な思考の丸呑みより, 

自分の本能の方が信頼できると思ったからだ。




次に考えたことは,
一番時間がかかることは何か, だった。


落ちるのは嫌だけれど,
頑張るのもめんどくさい。

ラクに結果が出ることをしたい。

あるいは周りにおいていかれたくない。


なんにせよそういう発想が出てくるのは, 
動物としての自然なことだと思う。

積極的な理由で頑張れることなど,
僕はほとんどない思っている。

人は弱い。


そう考えると,

手っ取り早いテクニックに流れる人は
やはり一定数いるだろう。

自分も同様に流れて, 競り合って, 
勝ち続けられるのか。


おそらく, 勝つことはできるだろう。

でも, きっと勝ち続けることはできない。


そこで, ふと生命の危機を感じた。


僕は勝ちたいという気持ちがほとんどない。
一方で, 負けたという感覚が極めて嫌いだ。

だから勝負というものに参加して, 
良い思いをすることはない。

テクニック勝負に巻き込まれたら, 
間違いなくバットエンドを迎えることになる。


だから, 勝負から逃げることにした。


イージーに手に入るテクニックで勝負し,

「自分」に限らず, 「勝負に勝った誰か」に
価値を見出されるのは性に合わなかった。

勝ってなくとも, 「〇〇能力」がなくても
人を大事にし, 大事にされる人間でありたかった。


だから, 能力を大きく見せたり, 嘘をついたり,
小手先に頼ることはやめようと決めた。

芯があって決めたのではない。


僕は弱くて, 競争が嫌いだから逃げたのだ。

就活で心を病むのは嫌だったから。


だから, 調べればわかることを
主戦場にするのではなく, 

むしろ, 一番時間がかかることから
始めようと思った。


これが2つ目の視点だった。

いわゆる「easy come, easy go」に照らして,
戦略的に撤退した。



そんなこんなで, 最後の視点の話だ。


結局, 最も時間がかかるのは,
自分を言語化することだと考えた。

重視されがちな論理 / 一貫性と,
人間の生はかなり遠いところにあるからだ。


さらに, 言語は知識 / 感覚共有のツールであり, 
独自化や, 自分にしかない感性の表現には向かない。

自己表現におけるこの相克をどう解消するかも
大きな問題だった。


これには途方もない時間がかかる。

そこで, 切り分ける視点を持った。


すなわち, ぼんやりしたものを
ステップや指標の掛け算に落とし込み, 

事実ベースで方向性を検討する, ということだ。


例えば, よく聞かれる長所 / 短所も, 
特性(事実)× 環境 × 主観のように表現できる。


僕は書くことも話すことも好きだ。

塾講師をしていたのもあって,
90分くらいなら一人で話し続けられるし,

このnoteも2時間ほどで約3,000字を書いている。


就活という環境では, 特性が極めて役に立った。
これは長所と言えるだろう。


しかし, 考えてみてほしい。

普段の生活で90分もの間, 話し続ける人がいれば, 
その人は高確率で敬遠される。

 

そして僕は普段, 必死に衝動を抑えているのだ。
これはなかなかに苦しい。

私生活という環境との掛け合わせでは,
同じ特性でも短所にしかならないのだ。



思考には二種類ある。

ぐるぐる考え続け, 問題を複雑化させる
「悩む」という行為と, 

視点によって問題を切り分け, 
本質を明らかにしたのち手法を探る
「考える」という行為である。


僕は古典的かつシンプルな問いによって, 
「悩み」を「考え」に昇華し, 

人生の交差点を乗り越えてきた。


しかし, 後者ばかりを奨励するつもりもない。

前者は内面を豊かにする有意義な機会と言える。


ただし, 精神とのバランスを保った上で, 
自分と相談しながら行うべきなのだ。


そして撤退に必要なのは, 
レトロかつシンプルな視点だと, 

そう考える。


就職活動を進める研究室の後輩に向けて。

拙文で恐縮だが,
これを僕からのエールとしたい。


交差点での選択が, 
本人にとって有意義なものであるよう祈って。

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