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言葉はたゆたう

「正論」て、何なんでしょうね。
ええ、あの広告の話です。

レッドブルの広告が話題になった日から「何をそんなに怒ってるんだろう?」と考えていた。

私が思う「正論」は
※論理としては正しいけど、机上の空論的な、現実に則していない言論
とか、
※相手に反論の余地を与えず、言われたほうが断罪されたような気持ちになって、自分を守るための反撃を促すもの
みたいなニュアンスを含んだ、「くたばっていいもの」だったから。

怒っている人たちの意見を読んでいると、どうやらそういうネガティブなものじゃなくて、文字通り「正しいもの」であるところの「正論」を踏みにじるものと捉えている様子。
私の感覚だと、その人たちの文中の「正論」に「正義」という言葉を代入したら、なるほどね、となった。

あのコピーを書いたコピーライターさんは、おいくつくらいの方なんだろう?
私はすごく同世代感を感じてしまったけど。
10代の頃、「夜の校舎窓ガラス壊して回った」先輩がいるくらいの世代。
(「公立の学校の窓ガラスは税金なんだよ。壊すなよ、ガラス高いんだから。何より寒いやん」と思ってはいたがw)

私たちの若かりし頃は、世の中の常識や正しさを疑い、戦うことがかっこよかった時代。
でも、今の若者は「盗んだバイクで走り出したら、盗まれた人がかわいそう!」とか、言っちゃうんですよ?
新成人に向けたメッセージとしては、響きにくいような気がする。

「正論」という言葉も、昔は戦うべき対象だったけど、時代の変化に伴って、守るべき正しさ、というニュアンスになった、というか、本来の言葉の意味に戻ってきたのかもしれない。
だから、あのコピーを見たときに、世代によって感じ方が違ったのかな、と思う。

以上は私見で、正しいのかどうかはわからない。
でも、ひとつの言葉の捉え方の違いで、揉め事やすれ違いが生まれる、というのは間違いないのではないかな。

言葉というのは意志疎通に欠かせないツールなのだから、例えば貨幣のように、誰が見ても同じ価値を持っていればわかりやすいのに。
100円硬貨は誰が見ても100円で、500円の商品は買えないし、50円のものならお釣が来る(それを高いとか安いとか、どう感じるかは別として)。
言葉は100円のつもりで出しても、受け手の解釈によって、500円や50円の商品が出て来てしまうこともある、曖昧なもの。

それは川面に浮かぶ木の葉のように、ゆらゆら漂っている。
世相や時代背景、話し手、受け手、それぞれの立場や人生経験などが複雑に混じりあって、川の水を成している。
時代によって意味が変わっていった言葉もあるし、同じ言葉でも、瞬間ごと、シチュエーションごとに、ニュアンスは違う。
どこかに根を張った木とは違い、掬い上げようとしても、流れに乗って指の間をすり抜けていくような、捉えどころのなさを、言葉というものは持っている。

この文章のタイトルも「たゆたう」にしたけど、文中は「漂って」にした。
「そこは“たゆたう”でしょ」という人も
「いや“漂う”でしょ」という人も
「どっちでも一緒じゃん」という人も
いるだろうし、いて良いはず。

だから、発信する側なら「どれだけ言葉を尽くしても、全ての人に100%届くとは限らない」と思っておくほうが、精神衛生上、良さそう。
そして、受ける側なら、特に第一印象がネガティブなものなら「私はこう感じる。でも、ここで伝えたい真意は、私が感じた通りのものなのかな?」と想像することも必要なんじゃないかと思う。

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