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メレヨン島(正式呼称、ウォレアイ島)とは

故郷の家では今頃夕飯どきに何を食べているのかな…、ゆうべ白いめしを腹一杯食べてみたいと言っていた戦友が、今朝はもうあの世に行ってしまった。あの板の下のかすかに白く見えるめしを食べてしまいたいな、バカ、餌が無ければねずみは来ないぞーー。心の中のかっとうである。

「お母さーん、お母さーん、腹が減った、だんだん痩せて死んでしまうのだろうかーー」とつぶやいていた。

「英、元気をお出し…、最後まで頑張るんだよーー」

と母の顔がまぶたに浮かぶと同時に、つつうと、涙がにじんだその眼に、黒いものが横切った。

引用文献:金沢英夫(1988)『メレヨン島生還記』P102(株)アルププロ

 


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 小笠原諸島を赤道に直すぐ南下すると、サイパン、グアム島と散財する。このグアム島を三角形の頂点にして、パラオ、トラック(チューク)を結ぶ底辺の真ん中に地図にも載っていないような島々がメレヨン島である。長い間、ドイツの支配下にあったが、第一次世界大戦の突発と同時に日本軍が進駐し、米国領グアム島を除く、パラオ、トラック(チューク)、ポナペ(ポンペイ)、メレヨン島を含めて、国際連合によって日本の委任統治領として認められた。今は、パラオを除きミクロネシア連邦として米国から独立した。

 日本を距たること2800キロ、黒潮吠ゆる中部太平洋の真っ只中に散在する環礁の中に点在する16の島のうち、比較的大きな9つの島に、島民約700人が居住し、原始に近い生活を営んでいた。1番大きなフララップ島でさえ島の1番長い処で1800メートルの三角形の島で、小さな島は椰子の木が2、3本生えていて、台風が来ると消えてしまうような島である。

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 昭和18年5月30日、おじいちゃんは19歳の時に出征した。故郷を遠く離れて大陸に渡り、当時満州国黒河省の「孫呉」に駐留していた野戦高射砲第52隊に入隊し、ソ連と満州の国境の警備に任じつつ、練武の日々を送り、次いで昭和19年2月太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、部隊と共に内南洋へと転進し、途中米敵機動部隊の鋭鋒をかわし、潜水艦が跳梁する海を越えて、40余日の航海の末、辛うじて、メレヨン島に到着した。陸軍の高射砲隊の一員として連日連夜の空襲と戦い、多大の戦果を挙げて同島保持の重責を全うした。食糧は焼かれ、戦線はサイパン、グアムを経て日本本土へと進展するに及び、戦力的価値を喪ったメレヨンは見捨てられて、食糧補給は完全に壮絶し、飢餓の生地獄と化し、尊い命を終戦までに落としたものが多かった。戦没者は4976人、生還者1649人となっている。島には、兵隊の他に設営隊員もいて、これを含めた戦没者は5400余を越えたのであった。

引用文献:金沢英夫(1988)『メレヨン島生還記』P1-6(株)アルププロ

 おじいちゃんは昭和51年5月に広島県福山市の備後護国神社で行われた慰霊祭に参加した。彼はそこで見た慰霊碑があまりにも立派で驚いた。その翌朝、瀬戸内の小さな島の海岸を散歩した。その思いはやはり海の果てに繋がるメレヨン島だった。小さな石が眼にとまった。その赤茶け石を拾い上げた時、昨日見た慰霊碑までには及ばないが、私だけの慰霊碑を作って、毎朝供養しようと決めた。表面にはメレヨン島戦没者慰霊碑と書き、裏には鎮魂、その字の下には、胡粉で誰の句か忘れたが句を書いて仕上げた。

 彼は、毎朝、お水を取り替え、お花を添えて、合掌していた。


 メレヨン島戦没者慰霊碑

鎮魂

「 咲きそめし 花の雫の 清き香を

  とどめて逝きし 君なりしかな 」

                              


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絵・Heart beat 9/18/2012

 今日もおじいちゃんと戦友の魂が平和であることを願い、風と共にメレヨン島に愛を送る。

 Aloha

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