哲学を学ぶとは何なのか
これまで私たちは賢さを、記憶力の試験で確かめられてきた経験しかないといっても過言ではない。
記憶力の有無が賢さの指標になるということだ。
哲学の定義のようなものはいろいろあるけれど、ぼくは哲学の定義を「考えることを考える」としている。
記憶することとは別の能力のことだ。
そして、考えることは能動的な意思の力を要する。自身が考えようと努力しなければならないのだ。
ぼくは哲学を学術的な範囲の中で使うことを避ける。
「◯◯哲学では…」から始まることが多い哲学だが、その条件が「考える」ことに必要だろうか。
また「◯◯という哲学者がこう言った」といった学び方もしない。真理は誰が言っても真理のはずだ。
推論から始まる「考える」という能力は生まれついてのものだ。その思考力を使いたいのだ。
「◯◯哲学ではこうだ」というのは苦手だ。その定義の中で考えるということが「考える」ということを制限していないだろうか。
条件は「人間として…」とか「この制限の中から…」といったものから考えるのだ。
それが「それって◯◯哲学だよね」と言われてもそれは構わない。「考える」ことが初めになければならないのだ。
私たちが目にするのは哲学者の話ではなく、哲学研究者や大学で教えている人の話だ。参考にすることはあっても鵜呑みにしてはならない。
そういった人は、哲学の紹介者でしかないからだ。
哲学は生まれついての能力から始めなければならない。自分のその能力を信頼して、どこまで考えられるかやってみるといい。
けっして間違ってはいけないのが、「◯◯哲学ではね…」と子供の頃からの記憶に頼ることだ。
考えたのではなく記憶したことを哲学だと思っている人は多い。
それは哲学ではなく心理学なのだ。単純に心理傾向といってもいい。
確証バイアスに陥り、権威に頼り、虚栄心に従うからだ。
先ずは、すぐ目の前にある「生きること」を課題にしてみるといい。
あなたの条件から考え出した答えは価値があるものに違いない。