自己犠牲はいらない
「人のため」「家族のため」「国を守るため」「人類のため」と利他的なことは良いことだと思わせようとする。
また、事実良いことのように思えなくもない。
しかし、「〇〇のため」とそそのかす奴らがいることを知っておかなくてはならない。
うまいこと他人をその気にさせて自分が得をしようとする戦略なのだ。
他人と自分は同じであり、家族は自分がいてこそ家族であり、自分は人類の一人でもある。自己犠牲によってそれらを助けているという気になってはならない。
自分を助けることは即ち他人を助けることでもある。
自分が良くならないのにどうやって他人が良くなるだろうか。ならない。
家族のために何かするとしたら心身ともに元気でいることだ。自分がコケたら家族の負担を増やすことになることでもわかるだろう。
では、「国を守るため」というのはどうすればいいだろうか。
戦争をすることではない。「国のため」と言って戦争に参加することでもない。
可能な限り国を守りたいのなら戦争をしないことだ。それが国も人も守る。
「いや、相手が」と言いたいのだろう。しかし、最初から戦うことを前提としているじゃないか。戦争に向けて煽っている奴がいるじゃないか。
そういってる奴は「だって国のために」と言うが本人は戦地にはいかない。
自分を守ることを一番に考えると、人を守り、家族を守り、国を守るにはどうすればいいかを考えることができる。自分を守ることを抜いてはならない。
自己犠牲はドラマの世界で通用する話だ。ヒーロー願望は確かに誰にでもあるが、その心理傾向に付け込もうとする奴らもいる。
私は反戦運動がどんなものかは知らないが、人間が人間を陥れようとする心理があることを知っているから人に知ってほしいのだ。
もっともらしい話から世界像を創り出し、うまく誘導していきコントロールしようとする。
利己的や利他的についても真剣に考えたことのない人たちに、利他的愛は美しいかのように言う。それに反発するどころか「そうだよね」と妙な理解を示す人がいる。利用されていることに気づかないのだ。相手の利己主義に乗せられてしまっているのだ。
若さはヒーロー願望が強く「〇〇のため」を善だと思って自己犠牲に繋げる人もいる。その気になることは危険だ。
心理学の専門家はそういったことに興味がないのだろうか。なぜ言わないのか。
私はついこの前まで「攻めてこられたら戦う」と宣言していた者だ。しかし、誰も「攻める」とは言ってないのだ。不安に駆られると疑心暗鬼が生まれ、そんな時に先制攻撃の必要性を訴えかけられるともっともらしく思えるものだ。
後続の車の車間距離が近くなっただけで攻撃的な心理が生まれることはみんな知っている話だが、相手の運転手がウ○コが漏れそうと焦っているとは誰も想像しないものだ。知っていれば「お先にどうぞ」と親切になれるはずだ。
戦争道具を売りつける人やその商売の関係者は、ウ○コが漏れそうな話を、さかんに「戦争が起こる!」「我が国の危機だ!」と言い換える。
しかし、若さというのはそう言われるとカッと熱くなるものがある。
年長者は、「弱腰だ!」とバカにされようとも、それを抑えてやらないといけないのだ。