見出し画像

痛みの哲学

ぼくは毎日、何らかの痛みについて考えさせられている。身体の痛みだけでなく、心の痛みについてもである。

ぼくの観る痛みはいつも悪者扱いされている。しかし、本当に悪者なのだろうか。
痛みは当然の働きをしているだけなのではないか、そう思わせる面がいくつもある。

痛みは自分の都合でコントロールできない。身体が自動的に働くからだ。

アイン.ランドは、

「快楽と苦痛を感じる能力は人間の体に生まれつき備わっています。この能力に関して人間の選択の余地はありません。
快楽の感覚をもたらすか、それとも苦痛の感覚をもたらすかを決める基準を、人間は選べません。
すべての生き物の体に備わるこの仕組みは、いわば生命の自動保護装置です。
快楽の肉体的感覚は、その生き物が正しい方向の活動行動を追求していることを示すシグナルです。
苦痛の肉体的感覚は、危険を警告するシグナルで、その生き物が誤った方向を向いており、何かが身体機能を損なっていて、それを修正する活動が必要なことを知らせています。」

と述べている。

快楽と苦痛に関する見方は、ぼくも同じだ。
だからこそ、痛みの存在は、正常な感覚を有していることの証明であり、快楽の感覚は、自分の正当性を示しているといえるのではないだろうか。

薬物の影響や苦痛の代償行為の快楽は、病的であることは言うまでもない。

苦痛を取り除くことは、間違った方向から、正しい方向性へ向ける意思を生み出し、その際には、快楽が生まれている。

道徳的に生きることには、そうしないことよりも、心に快感が伴っているはずだ。
反対に、不道徳や悪行を重ねることには、心に苦痛が伴い、そこから逃れようと、道徳的な生き方に向かう際には快感が伴うはずだ。

傷が治っていく過程では、痛みの軽減がその判定に使われるのと同じようなものだ。そうなることは正常であるといえる。
人間が苦痛から逃れようとすることは、身体的なものだけでなく、心にもそれはある。

苦痛を無視することや誤魔化すことは、人間として悪い方向へ向かっているのかもしれない。
悪い方向というのは、苦痛の方向である。生きにくい方向でもある。

苦痛に見舞われた時、自分はどうするべきなのか、何が必要なのか、何を変えればいいのかを、考えることが必要なのかもしれない。

そうすることで、より正しい方向へ自分を向けていけるのではないかと思うのだ。
正しい方向とは、快楽の方向である。生きやすい方向でもある。

当然、薬物の快楽ではないことは誰でもわかると思う。

仕事ばかりしていないで、たまにはこんなことを考えることは悪くないのではないだろうか。苦痛がないので正常だと思う。