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さらに多くの群盲が象をなでれば象がみえる

一人だけの目の見えない者が、象をなでて象を語れば、象の姿は見えてこない。
しかし、群盲の一人一人が語る象をつなぎ合わせれば、象をそれらしく語ることができるはずだ。
この時のルールは「オマエは間違っている」と言わないことだ。群盲の一人であることを自覚することである。

ぼくはこれまで専門書を読むことが多かった。そんな世界を世界だと思い込んでいたかもしれない。
小説も大好きだが、面白いと徹夜になるのがわかっていたので、出来るだけ避けるようにしていた。


最近は、noteの記事があるから、いろんなものを読むことを楽しんでいる。
誰でも経験することだが、読んでいると、
「へー」「そうだったのか」「それは違うんじゃない」「そうきたか」
いろんな感想をもつ。この際には、正しいとか正しくないとかの感想は要らない。


重要なのは「刺激」だと思う。この「刺激」によって脳は拡張するのだ。その反対は脳の萎縮だ。
ぼくは「人間はコミュニケーションをとって生きていく生き物」だと思っている。上も下もない横のつながりで生きるということだ。
上や下を作ろうとすると、途端に闘いの炎があがる。やっかいである。
横へのつながりに必要なのは、「敬意」や「尊重」だ。

群盲であろうとも、それぞれの主張には意味があり、影響を与える何かが含まれているものだ。
相手を否定することには努力は要らない。本能に従えば簡単にできるからだ。
「尊重」や「尊重」には努力が要る。これは人間にのみ与えられたという理性が要るからだ。

それさえあれば、群盲であろうとも世界を語る資格は十分にあるのではないかと考えている。

それらが語ったものの総体が世界だとはいえないだろうか。

今日の知恵は、結論は早いのかもしれないけれど、仮説としてとどめておこうと思う。