自己嫌悪を防ぐ心の働きについて…
今日は自己嫌悪について書いてみようと思う。先日、怒りについて記事にしたが、カニナさんというnoteでお世話になっている方からコメントをいただいた。
「不平不満の怒りではなく、現状を変えるための怒りならば、怒ったあとも自己嫌悪になることなく、前に進めるような気持ちになりました。」
という内容だ。
私の言いたいことをよく理解されている有り難いコメントだ。そのコメントから自己嫌悪について考えさせられた。
自己嫌悪に悩む人もいる。私たちは日常生活の中で変化しない自分にイラつくこともある。努力していても我慢していても事態が変わらないときなど自分が嫌になることもあるだろう。
自己嫌悪は自分の理想とは違う自分が嫌いだということから生まれる心理だ。
どう受け入れるかによって乗り越えることもあるがうまくいかないこともある。
人間の心は快適な環境を手に入れるために向上しようとする。変化するということでもある。
繁殖相手の獲得も含めて快適な環境を手に入れることが出来なければ心は成功を手にしたと解釈しないようだ。満足しないということだ。
利己的な遺伝子によって心が生存と繁殖の獲得に忠実であればあるほど私たちを心が苦しめる。
その苦悩や不快な感覚から逃れようと心は働くが、その目的は生存と繁殖を有利にするためというのが面白い。
自己嫌悪もそういったことに関わっていることは間違いないだろう。
生きにくさを感じる自分を嫌い、魅力的ではない自分に幻滅していく心の働きで理解できるのではないだろうか。
しかし、心は確かに利己的な遺伝子に操作されているといえなくもないがそれだけではない。なぜなら、そういった説明に対して怒りを覚えることがあるからだ。「そんなはずはない」という気持ちだ。
人間の心は現状を拡張しようとする働きもある。また、リチャード.ドーキンスの述べる「脳は遺伝子の独裁に叛く力さえ備えている」という話は、生存や繁殖を有利にしようとする心の働きを上回る力だ。
怒りによって自己嫌悪に陥る心の使い方はおそらく健常ではないだろう。なぜなら私たちの機能は病的になるようには出来ていないからだ。
怒りは自分以外のものを破壊する力もあるが、使い方によっては自分の能力を拡張したり向上させたりする力もある。それが達成出来れば自分を誇らしく思うものだ。
また、怒りを攻撃的に使うなら病的になり、不幸か病気によって変更を迫られる。自分が嫌になるのだ。
むしろ怒りは自分を嫌うことを避けるために存在しているといえなくもないのだ。
いずれにしろ心の使い方についての研究はほとんどわかっていない。
私が言えるのは、心を抑えつけてコントロールするよりも、心をどう使うかを学んだ方が健常なコントロールが可能だということだ。
心は逆境や苦悩を経験した者が、それを乗り越える力とは何かという問いや課題について研究すると面白いと思う。