哲学:決定論と自由意思
物事は初めから決まっているという考え方がある。
意思決定は自由に出来るという考え方もある。
日常生活ではどうでもいい話だが、そういったことを議論する人もいる。
何を選択するかが予め決まっていると言われると心がざわつく。
また、自分の意思で決定するものだと言われると少し気が重くなる。
しかし、現実はそのどちらも真実で、どちらも真実ではない。
決まっていることに対して、自由に選択することも出来る。二つの現実があるのだ。
雨が降ることが決定しているとして、それに対応する選択肢はいろいろある。どれを選ぶかは自由だ。
傘をさすのもよし、濡れるのもよし、動かないのもよしだ。
それを選択することはそれぞれ決定しているといわれるだろうが、同時に二つのことができないのだ。
雨に濡れながら傘をさすことはできない。雨に濡れながら雨宿りはできないのだ。
ここからがちょっと難しいのだが、その選択は自由にできるが、それがどんな理由で選択するかは決定されていると言われても仕方がないが、変更も可能だ。
哲学で議論されるややこしいことであっても現実では対処可能だ。
決定論の中での自由意思の行使は決定されているかもしれないが、人それぞれといった自由度がある。個人と全体は同じではない。
何をどう選択するかは訓練によっても変更可能だが、それは決定されているのかもしれないが、訓練の、選択は自由だ。
そして、その答えは決定的ではあるが、選択を変更することは自由なのだ。それは決定されている。
こういったややこしい話を哲学では延々と続けるが、「どう対処するか」によって終焉する。
それは決定されていることだが、自由度は残されている。そのことも決定されている。
後出しジャンケンは無しという条件は必須だ。
そんな中で、どう考えるかが哲学なのだが、暇つぶしかのような話に終始する哲学があることも決定されている。
ぼくは違う。
実は、脳の可塑性の機能を維持するために、予めこういったことを、あーでもない、こーでもないと考えさせてているのではないかと思える。
面倒くさいと思われるが、人間の思考はそれを乗り越えるだろう。ぜひ乗り越えて欲しい。
脳の機能を維持するといった決定事項を、考えるという自由度によって活性化させているように思えるのだ。
このややこしさが「考える」という楽しみでもある。「何のため?」の質問の答えはすでに述べた。