⭐️学び:運命を司るもの
運命について考えたことは誰しも一度や二度はあるはずだ。ぼくもある。
運を実力だと勘違いすることもある。反対に、実力なのに運だという人もいる。運も実力のうちだとも言う。
実力も運のうちとは言わない。
不運が長く続くと心はペシャンコになるが、不運も変化するのが普通である。
運と実力は似ているが違うものだ。
運に再現性は望めないが、実力は何度でも再現できる。しかし、実力は一つだけで他のことも実力があるとは限らない。
「運命は変化するものである。
人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致するばあいは成功するが、しないばあいは、不幸な目を見る。」
マキャベリは君主論の中でこう述べている。確かにそうだろう。
運命のイタズラによって生きることが嫌になることもあるが、そうこうしているうちに、運命が変わり始めて状況を変えていくこともある。
「待つ」という戦略が奏功することもあるのだ。
しかし、運命がうまく回らなくなってどうしていいかわからなくなることもある。
じっと待つことも大切なのだが、時には前に進まなくてはならないこともある。
それについてよい話がある。
「人は、慎重であるよりは、むしろ果敢に進む方がよい。
なぜなら、運命の女神は女だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。
運命は、冷静な生き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。」
これもマキャベリの君主論の話の中にある。
この話はおとぎ話ではない。
ぼくは、この話をひとりの奥手でモテない男性にしたことがある。
その彼は、この話を真にうけて果敢に打って出た。ひとりの女性に結婚を前提に付き合ってほしいと申し込んだのだ。大勝負に出た。そして、その後結婚した。
そうすることも運命、そうしないことも運命だ。果敢に進む方がいいこともある。たぶん、それが運命というものだ。