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15作品目 「東京都同情塔」(九段里江)

どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。

このコラムに名前をつけていないので、ここの挨拶いつも迷うんですよね。
もう今、決めちゃえばいいか。
HPでのエッセイが「焙きながらするほどでもない話」、Spotifyでの自主配信ラジオが「飲みながらするほどでもない話」と言っていいます。
じゃあ、やっぱりここも「〜ながら」の形は踏襲させたいですね。
「焙煎」と「飲む」ことには言及しているので、やっぱりその間の「淹れる」の工程でしょうか。じゃあ、枕詞は「淹れながら」にしましょう。
うーん、「ない話」だとフォーマットは綺麗なんですけど、コンテンツの覚書という性質上、ちょっと内容とそぐわないですよね。
ので、「覚えておきたい」にして、「話」の部分は「コンテンツ」だと長いので、「エンタメ」にしましょうか。

「淹れながら覚えておきたいエンタメ」

どうでしょう。
なんか、珈琲を淹れるときのためのエンタメみたいなニュアンスがありますよね。
「覚えておきたい」を「思い出したい」にしますか。いや、希望の助動詞「たい」を過去の助動詞「た」にしましょう。

「淹れながら思い出したエンタメ」

変わらないね。
でも、まあ、いいか。
と言うわけで、このコラムは「淹れながら思い出したエンタメ」に決まりました。
以後、お見知り置きを。

それに伴って、「○回」としていた単位を「○作品目」にしましょう。
あ、その方が良さそうですね。

改めまして…
どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。「淹れながら思い出したエンタメ」15作品目です。

今回、書き留めるのは、先日、芥川賞を受賞された九段里江さんの著作、「東京都同情塔」です。

タイトルがいいです。
ここ最近の芥川受賞作の中では「コンビニ人間」の次に好きなタイトルです。
ユーモラスで、かつ微妙に緩い感じで韻を踏みながら、「同情」と言う言葉は作品がもつかなり鋭い批評性を端的に表しています。

ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることに。犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の預言の書。

https://www.shinchosha.co.jp/book/355511/

と言うのがあらすじです。

作中にAIを用いたことが話題になったりしていましたが、そんなことよりもこの作品の一番の魅力は「解像度の高い内省」にあると思います。

何か一言、言葉を発しようと思う時、私たちは言葉の選択にどれだけの思考を費やしているのでしょうか。
言葉とは記号ですから、言葉という型を選ぶ前に、輪郭のない概念を構築する必要があります。構築された概念にどんな型の輪郭を与えようか、これが言葉選びです。

例えば、りんごの概念を頭に思い浮かべた時に、「みかん」と言う輪郭は与えません。「りんご」と言う型にはめます。
次に、りんごと言う概念を表すにも「りんご」と言う言葉もあれば、「アップル」と言ってもいいかもしれない。同じ型でも微妙に形が違うので、より適切な形を選ばないといけません。そういう精査を経て、やっと私たちは言葉を発しているのだと思います。

作中に登場する建築家、牧名は自分の言葉に対する内省に高い解像度で悩みます。
カタカナに言い換えられる日本語。それは我々が思考する上で、自分たちが構築した概念に与える型として本当に適切なのか。

「同情」という言葉は最近の風潮からするとかなり批評的です。
能力主義に対して、マイケル・サンデルさんなどが主張する「共同体主義」にもかなり通づるところがあります。
マイケル・サンデルさんは能力主義における高所得者たちの「驕り、傲慢」が分断を生み、トランプというポピュリストを大統領にまで押し上げた原因だとしています。(マイケル・サンデル著「実力も運のうち 能力主義は正義か?」)

本作における「犯罪者」が同情されるべき存在であるとして「ホモ・ミゼラビリス」と言い換えられるマセキの発想はどこか共同体主義と共鳴するとこもある。
しかし、マセキの庭で起こる決定的な事件は、マセキの自身が他者を排除する思考を
持ち合わせていたことを表しています。
この辺りが、かなり鋭い批評性を持ち合わしていて、笑えてさえきます。
かなり現代の政治思想を反映させていて、面白かったです。

最後に、補足的にAIの使用について、思うことだけ書いておきます。
この作品では生身の人間、拓人の文章と対比させる形で、AIが発した言葉に、実際のAIの言葉を当てこんだだけで、作品の根幹にAIが使われているわけではありません。

現代音楽における打楽器と同じでしょう。
タン・ドゥンという作曲家に「水の協奏曲」「紙の協奏曲」と言ったコンチェルトがあります。
タイトルの通り、指揮台の隣には水の張られたボールや長い紙がぶらさがっています。

バイオリンとトランペットの音色をいくら掛け合わせても、こんなにびちゃびちゃした音にはなりません。
これは、水でしか出せない音なのです。オーケストラの楽器で表せない音色を作曲家が求める以上、水を使うしかありません。
もちろん、楽器ではない水をソリストに迎えるということがもつ、現代音楽的なコンテクストもありましょうが。

今作におけるAIの使用も同じこと言えるような気がします。
人間の言葉が創るのでは生み出せない違和感を、実際にAIに造らせるのです。それでしか、得られない効果を作家が作品に求めたからです。
AIを使ったという話題は、かなりキャッチーで、批判的な意見もあるそうですが、ちょっと違う次元の話をしている気がします。
まあ私はそう思うというだけです。

いづれにせよ、ここ数年の芥川賞受賞作の中でも、群を抜いて面白く、現状の有様をかなり高い解像度で分解して、突きつけてきた作品でした。

〈information〉
自家焙煎珈琲パイデイアは「深煎りの甘味」をテーマに日々、珈琲の焙煎をしております。よろしければ、ぜひお試しください。詳しくはこちらを。
パイデイアのHPでも毎週金曜日、「焙きながらするほどでもない話」というたわいもないエッセイを更新しております。よければ覗いてみてください。
それから、さらにSpotifyで「飲みながらするほどでもない話」という自主配信ラジオを毎月偶数土曜日に配信しております。気が向いたら、こちらもぜひ聴いてみてください。


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