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3.11

 今でも思い出す。小学6年生だったあの日は、卒業生を送る会に出ていて、私は優雅に体育館でお菓子を食べながら感動的なムービーを眺めていた。この時はまさか、家に帰れないなんて思ってもみなかった。

 お菓子の封を開けて、パリッと一口噛んだその時、いきなり、地面がグラグラとゆれはじめた。

「地震だー!」
と、避難訓練のテンプレかのように、誰かが叫んだ。私たちは笑顔だった。

 最初はいつも程度の地震だろうと、ふざけ半分でお菓子を片手にみんなで机の下に隠れた。

 ぐらぐらぐらぐら。

 でも、だんだんと勢いが増してきた。休むことなく左右に揺れ続ける地面と机に押し潰されそうになって、慌てて食べかけのお菓子を口にくわえたまま、机を支えた。

 体育館のデカい窓から垣間見えた空は、なんだかこの世の終わりみたいにピンクと黒が混ざったような色をしていた。旗揚の棒は、今まで見たこともないくらいに左右に大きく揺れていた。私の心も、ざわざわと嫌な予感を告げていた。

ここで死ぬのかな、と思う反面、こんな世の中終わってしまえと思っている自分がいたのは、私だけだろうか。

何分、いや何時間にも感じたその揺れは、いつのまにか収まっていて、みんな机の下からのそっと這い出て現状を確認した。今まで経験したどんな地震よりヤバいやつだということは、ニュースを見なくても、みんななんとなく分かっていた。

私は家庭が複雑で、母は仕事の都合で数ヶ月前に福島に引っ越したばかりだった。父は仕事があるため1人で渋谷の方で暮らしていた。私は最後まで同じ小学校に通いたかったため東京に残ったが、父との二人暮らしがどうしても嫌で、八王子にある祖父母の家に居候していた。
だから私は、生意気にも小学生ながら、八王子から渋谷まで毎日電車通学をしていた。

当然、その日は電車がストップ。八王子には帰れなくなった。
職員室の固定電話を借りて、電話をさせてもらった。
福島にいる母には電話が繋がらなかった。
父に連絡すると、迎えに来てくれるというので、そのまま学校で待機することになった。
家の近い友人はみな、そそくさと家に帰っていった。
職員室のテレビで流れていたニュースでは、見たこともないような水の大群が、家や車や人々を喰らっていた。本当に現実に起きていることなのか、理解ができなかった。

電話もつながらず、電車も止まり、福島にいた母とは連絡が取れず、父と2人、電車の止まった東京の街を、ぞろぞろと歩いて行く人の群れに混ざり、歩いた。数千、数万の人々が同じ道を通って歩いて帰っている。なんというか、エモいという言葉がぴったり来るような、そんな帰り道だった。

テレビもない畳1畳の部屋で、父と2人、パソコンを繋ぎUstreamのライブ配信を観た。押し寄せる津波から逃げ惑う人々。いとも簡単に飲み込まれて行く車や建物や道路。自然の恐ろしさを、リアルタイムで実感した。私はこんな恐ろしい世界に生まれてきだのだと、その時痛感させられた。

どうやって八王子に帰ったのかは、覚えていない。母とは連絡が取れた。無事だった。何故だか、涙が溢れた。

気がつけば原子力発電所が津波に侵され、放射能が流出し、私は連日鼻血でティッシュを赤く染める日々を送っていた。

学校は一時期休校になったが、再開。私は電車が動いておらず、通えなかった。卒業式はなんとか行くことができた。日本、ありがとう。

もう2度とこんなことで人が亡くなりませんように。そう願うばかりだ。自然災害ばかりは、どうしようもないことだけれど…。

そんな私も、今ではもう大学4年。コロナやらなんやらで騒がれてはいる今日だが、自分が目で見て肌で感じたあの経験を無駄にしないよう、精一杯今を生きて、あの時犠牲になったひとたちをずっと覚えていようと、そう強く思う。

全ての犠牲者の方、被害者の方に深くお祈り申し上げます。

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