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ラジオと私と無我夢中

13歳のとき、17歳も年上の福山雅治さんを好きになった。
そして、土曜日の23時半から1時まで、ラジオを聴くようになった。
ラジオブースと、暗闇の私の部屋が繋がっているような不思議な感覚に包まれ、私はあっという間にラジオの虜になった。

当時のラジオは、ちょうど今のテレビがYouTubeにその座を奪われそうになっているように、完全に勢いをなくしていた。実際私の周りでラジオを聴いている人はいなかったし、番組枠の改編などで、試行錯誤が外からでも分かるくらい、焦りが見えていた。

しかし、私にはそのときのラジオも、面白くて面白くて仕方なかった。
バスケ部の部長として部活に励みながら、家ではもっぱらラジオ。暗闇の自室でイヤホンで聴くのが一番好きだったが、お風呂で防水ラジオを持ち込んで聴くのも大好きだった。

ファックスが読まれると飛び上がって喜び、高校生になり、メールで投稿できるようになったときには、世界が変わったかのように感動した。

当時、ニッポン放送では、22時から0時までオールナイトニッポンスーパーがあって、そこから1時間ニッポン放送の番組があって(くりぃむしちゅ〜の上田さんだったり、荘口アナウンサーだったり)、そのあと1時から3時までオールナイトニッポンコムがあった。
そこを網羅し、なんならそのあとのオールナイトニッポンRも毎日聴いていた。

裏番組のTBSラジオの番組も録音して、時間があれば聴いていたし、
最終的に最もハマったのは、J-WAVEの2時から4時までやっていたTR2という番組の水曜日、リリーフランキーさんの番組だった。

FMという無駄に良い音で(当時、音の入りが悪くて、ベストなアンテナ線の位置を、部屋の中を右往左往しながらいつも探して聴いていたが)、とてつもなくくだらない話が繰り広げられる番組なのだが、一方でどんな相談にも真剣に応じてくれていた。
それは対極に位置しているわけではなく、同じ世界線で繰り広げられているもので、それがとても心地よかった。

あるときリリーさんが「福山雅治とかラジオのゲスト来てくんないかなー」などと言った。そんなん無理だろという文脈で。
しかし福山さんは「いつ行けばいいか聞いておいてくれる?」とマネージャーにすぐ伝えたらしい。
そう、私が大好きな番組を、福山さんも聴いていたのだ。
そしてそこから、あまり日を置かず、ゲストとして福山さんが登場した。

汚い表現で申し訳ないが、どちゃくそ興奮した。

こんなに気軽に来れるの!?大好きな番組に大好きな人が出てるよ!?なにごと!?事変!?

放課後の部活、誰にも伝えられないこの気持ちを込めて、スリーポイントシュートをひたすら打った(そして入らない)。

今でもリリーさんと福山さんはとても仲が良いらしく、その様子を見るたびに、あの日のことを思い出す。


そして、そこから10年以上が経った。

ラジオはSNSやradikoというツールを得て、新たなメディアとして生まれ変わった。
SNSでシェアをすれば、あっという間に番組やリスナーと繋がることができるし、
radikoを使えば、いつでもどこでもクリアな音で放送が聴ける。

そして映像メディアにおいても、芸能界のあらゆる方々が、自宅からインスタライブやYouTubeを配信し、自室と芸能人の距離が一気に縮まった。

最近の推し、星野源さんもまさにそうで、星野さんの自宅の壁や木目や小物や絵を描く手のホクロやあれやこれやを穴が空くほど凝視できるのだ。これは夢か。

けれどもやっぱり、あのときの私が味わった興奮には到底敵わない。

それはきっと、あのときの若さゆえの熱狂がもたらしたものだろう。


今、私には二人の息子が居るが、その二人は何に心を震わせ、何に夢中になるのだろうか…。

私は彼らに対し、つい先回りして、何かに熱中させようとしてしまっているかもしれない。
冷静にこうやって自分の過去を思い返してみると、誰にも何も促されることもなく、自然とそこにハマり込んでいたことに気づく。

「努力を努力だと思わない瞬間が才能」という言葉を聞いたことがあるが、私はラジオを聴く天才だった。

そんな一見するとくだらないような熱狂の中に、実は大切なものが隠れているのかもしれない。

単にラジオとの思い出を書き連ねるだけのつもりが、最終的にはこんな着地点となった。

文章を書いていると、こんなことが起きる。面白い、好きだ。


あ。二日かけてこれを書いてる私、実は文章を書くのも天才なのかもしれない。


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