教育について思うこと

こんにちは。ピヨッペです。教育について思うことと題しましたが、なんか人の在り方みたいな話になっちゃった。それでもよかったら読んで、暇があればコメントとかください。よろしくお願いします。


人格や思想に対して、否定も肯定もしない。ただ、自分の制限の中での無条件の肯定的関心と寄り添って自分の事のように感じようとする姿勢を取ることが出来たらいいなと思う。そうは思っても“自分の制限の中で”というのが難しい。他者に対して危害を加える場合や社会的な規範に背くことはよくないと伝えなければならないとも思う。でもそんな事を伝えたところで何故それがいけないのかの本質は理解出来ない気がする。いけないことに対して叱ることは対症療法に過ぎず、原因療法にはならないのではないか。そうであれば、叱りがもたらす良心の呵責と自責の念に囚われるだけではないのか。極端な例かもしれないけど、実体験として危害を加えられて嫌な思いをするとか、失敗の中から自分の中で次はどうすればいいのかなどと考えなければ、確固たる自分の視点や意見を持つ事は難しいように思える。もちろん対症療法にしかならないとしても、いけないことはいけないと伝える事で抑止に繋がる事もあるので意義はあると思う。ただ、過度にしつけることやいけない事の本質に対する理解を急いだり強制する事は何か違うような感じがする。先の人生に置いて必ず失敗はある。その大きさに関わらず、得られる知見は血となり肉となると思う。人生の早い段階で、何がいけなくて何がいいのかを理解することが出来れば望ましい。望ましいが難しい。大人に叱られるのが嫌だからと言われた事にだけ従う子供が、アップデートされないままに大人になってしまう方が問題があるような気がする。いつも叱られていても、色々な事に疑いを持って考えて質問をしてくる子供の方が、叱られない為だけに常に良い人間を演じている子供よりもその段階では望ましいのではないかと考える事ができる。とはいえ発達の途中であるだけで、どのような人間になっていくかの方向性は人によって異なってくる。その方向性や段階の早さに優劣はない。評価対象より現時点での己が発達しているからと言って、優劣をつける事など出来ない。大人に出来ることは、ただ人間の多様性を受け入れて、子供がどう生きていこうかと模索するのを眺めて、必要に迫られれば援助を厭わない姿勢なのではないかと思う。であれば、金銭や支援に責任を持てる人間しか子供を産むな、という話には繋がらない。当然苦しみを抱える人間は新たに産まれない方がいいから、産むなという論調も理解できる。でも他者の人生に口出しするのはなんか違う気がする。産みたい人には産みたい人の価値観があるし、その逆の産みたくない人にも産みたくない人の価値観がある。ただそれを押し付けあってどうなるというのだろうか。そうしたいのならば、そうすればいい。全ての人間が生きたいように生きていいと思うから。でも相反する価値観を押し付けたり、仮想の敵を作って声高に攻撃をする事の価値はなんだろうか。その後に生まれるのはただひたすらに窮屈な世界ではないのか。受け入れなくてもいいから、見て見ぬふりをしたらいいのではないか。そうして異なった思想の人々が、各々の暮らしやすいように生きたらいい。思想の異なる人間に対して、否定も肯定もせずに、ただあるがままを受け入れる。肯定という意味での受け入れではなくて、ただ、そこに在る、居るとそれくらいの認識でいれたらいいな。尊重ってそういうことな気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?