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【4年間の創作活動を振り返る】お絵描き・美大受験・デザイン・Twitterなど

こんにちは。P1PEです。Twitterを中心にオリジナルのイラストやアニメーション作品を投稿しています。2024年4月で美術大学のデザイン科2年生になりました。

普段は以下のような作品を趣味で制作しています。

大学では主にグラフィックデザインやプロダクトデザインなどのデザイン領域を広く学んでいます。

このnoteでは、創作活動を始めた2020年からの4年間を振り返り、受験や美大での学び、創作活動についての思い出などを思考の整理として文章にまとめたいと思います。

※以下は美術予備校 私立美大デザイン科コース → 私立美大デザイン科へと進んだ個人の感想になります (ファインアート領域や藝大など国公立美大の内容は関係しません)



2020年:創作活動を始めた

作る楽しさについて


趣味のイラストや映像制作を始めたのは、初めてPCに触れた2020年の4月頃でした。幼少期から絵を描いていたタイプではなかったので、初めて作品を作った時は『こんなに楽しいのか』と感動したことを覚えています。

イラストを『描くこと』や、自身のイラストやCC0の画像を映像として『動かすこと』それ自体が楽しかったので、特にクオリティなどは考えず暇な時間を見つけては意味不明な(テーマの無い?)作品を大量に制作していました。

今見るとかなり拙い作品ですが、これを制作している時点で既に成人していました。Twitterで中学生の方に映像編集ツールの使い方を教えてもらったりして、みんな自分が夢中になれることを早くから見つけ、技術を磨いていてすごいぜ……と思った記憶があります。

そんな感じで2020年から2022年まで継続して創作を行っていました。約2年間で制作したイラストや映像作品は全部で600点程あります。正直今見ると下手…どころか怖いと感じるものが多いのですが、そもそも自分は飽き性で同じ活動を積み重ねるような経験をしてこなかったので、イラストや映像のような作品作りは楽しいし継続出来ているので自分に向いてるのかもしれない、そちらの方面を勉強してみたいな、と思うになりました。

色々あって、2023年度の美大入学を目指して美術予備校に通う事にしました。当時は美術方面の見聞が全く無く、周囲にそういった知り合いも居なかったので、そもそも1年勉強して受かるようなレベル感なのかすら分からず、合格出来なかったとしても予備校で1年学べれば満足、という感じでスタートしました。


2022年:美術予備校に入学

① 美術予備校について


2022年の4月に美術予備校に入学しました。美術予備校とは主に美大受験に必要なデッサンや平面構成など、実技科目を練習する為の場所です。

美大芸大進学を目指し予備校に通う中学生や高校生に囲まれながら、入試対策としてデッサンや平面構成(絵の具を用いた作品制作)の練習を行いました。

予備校では講師の方々が学生の絵を評価毎にランク付けし、みんなの前で評価してくれます。これを『講評』と呼びます。作品作りと講評を受けて実技科目の完成度を高め、合格を目指すのが主な目標です。

今まで本格的な美術教育を受けたことが無かった私にとって、予備校での毎日は刺激的な出来事の連続でした

当時のメモや日記を参考に、今も覚えている印象的な出来事を以下にまとめます。

以下の内容は私が通っていた予備校のデザイン科の私立美大受験コースで感じた感想なので、他の予備校や、国公立大学、ファイン科の内容については述べません。


② 「答え」を探して


私は一般的な大学受験予備校の雰囲気を想定していたので、初回では分厚いデッサンの参考書のようなものを渡されて、「デッサンとは何か」みたいな座学から始まるのかと思っていました。実際は真逆でした。

基本的に予備校では座学のような授業はほとんど存在せず、ただひたすらに絵を描く時間が続きます。※入試に国語や英語など筆記科目もあるので、対策授業で別の予備校に通う人は居ます

また、「デッサンの正しいやり方」のような『万人に共通する答え』はそもそも存在しません。これは人によってデッサンの描き方や捉え方、感覚が大きく異なるからです。

実際に複数の講師の方にデッサンのデモを何時間も見せてもらった事もありますが、人によってプロセスや捉え方、画面の操作手順がかなり違っていて驚きました。私は個人の画力に応じたマニュアルのようなものがあり、それに沿って絵を描いていくのだと思っていたので面食らいました。

趣味のイラスト制作の手順に「答え」が無いのと同じなのですが、当時の私は「答え」に従う事で安心したい、という気持ちが強かったことを覚えています。

今思えば、私は絵を描くこと以外でも「何か1つの力強いの答え」に縋ることが多く、そのような思考が自身の弱点になっていたと思うので、予備校での一番の学びは上記の点かもしれないと感じています。

ノートを見返したら、講評のメモに"「君は言われた事しかやらないね」「描くことにビビっている」と言われた"と記載されており、講師の方にもそれがバレていたようです。


③ 「答え」を教えてもらう場所ではない


初めてのデッサンでは、何から始めれば良いのか分からず、というかそもそも「デッサン」というものが何であるのか理解できていなかったので、講師の方に何をすれば良いか尋ねると『始めは、とりあえず手を動かしてみれば良いと思う』とだけ言われ、紙を鉛筆で6時間くらいぐりぐりしていたら初日が終わりました。

そんな感じで、美術予備校では具体的な「答え」を教えてくれることがあまり無いです。では逆に何を教えてくれるのかというと「改善点の指摘」です。

例えば、リンゴのデッサンをしていてシルエットの形が大きく歪んでしまっている場合「リンゴの形が歪んでいるので、もっと現実の形に寄せて描いた方が良いね」という改善点の指摘をしてもらえます。

しかし、そこから「形を改善する為に○○すればいいよ」といった具体的な方法を指導するような事はあまりありません。尋ねれば具体的なヒントを教えてくれますが、実際に描いて試行錯誤を重ね、改善していく過程は自分で行う必要があります。

なので漠然と描くのではなく、何かしらの目的意識を持ち、実験や検証をするような気持ちで日々のデッサンに取り組みました。講師の方も「ここは合格する技術を教える場所じゃない。みんなで色々な方法を模索する場所だ」「毎日同じことをしていても受かりにくいと思う」と言っていたようです(メモより)


④ 視覚的な課題解決能力を鍛える


上図の『絵を描く』→『改善点を指摘される』→『具体的な方法に落とし込んで実験し、修正していく』というサイクルが上手く回るようになると、デッサンが上手くなっていきます。

それだけでなく、絵の改善点を見つけ効率よく修正していくというプロセス、つまり課題解決能力そのものが徐々に向上していきます。これは美大受験生だけでなく、数学を学ぶ理系の受験生や国語を学ぶ文系の受験生など、どの受験生でも同じだと思います。

しかし、ここで絵を描く事を通して、つまり視覚的な情報の操作を通じて課題解決のプロセスを学ぶのが美大生・美大受験生の強みであると感じました。

視覚的な課題解決能力は、イラストやデザイン、映像など自分が興味がありそうな領域への応用が効きやすく、さらに受験科目として課せられている「デッサン」自体も、陰影や物の認識など、色々なことを学ぶのに役立つので、当時の頑張りが今も活用されていると感じます。

Twitterでは「美大生になったから絵が上手くなるんじゃない、絵が上手いやつが美大生になるんだ」「美術予備校さえ行けば別に美大には行かなくてもいいと思う」といった呟きを目にすることがありますが、それは上記のような受験教育が行われているのが理由だと思いました。


メタを読む:感覚を拡張することについて

美術予備校では「改善点の指摘」をしてもらえると書きましたが、他者からの客観的な指摘というのは本当に重要で、特に自分より圧倒的に経験値と技術力のある人の、ほんの少しの言葉が自分の感覚をめちゃくちゃ拡張することが何度かありました。

感覚が拡張される事で「作品を作る(絵を描く)」という行為が単に紙の中だけで完結するものではなく、色々なレイヤーで行われるものだという事が徐々に分かってきます。

自分は美術に関して本当に素人だったので、初めて知る考え方がたくさんあって楽しかったです。

特に印象的だったものを下記にまとめます。


① 対象を描くのではなく、画面を描くこと


デッサンを始めたばかりの私は、画面(紙)の中に上手な「リンゴ」を描写することに執着していました。とにかくリンゴの形を観察して、それを上手く描き起こすような意識が強かったと思います。

ある時、たまたま来ていた大学生講師の人に「リンゴじゃなくて、画面を描いた方がいいよ」と言われました。

絵を描く上で、知っている人からしたら当たり前すぎて全く言及されないけれど超重要な考え方の1つに「対象を描くのではなく、画面を描く」というものがあります。

「リンゴを描く」場合、実際にはリンゴ自体を描くのではなく、「リンゴの画面を描く」必要があります。講師の助言でこの意識の違いに気が付いたとき、自分の中で「描く」という行為に対する感覚が大きく変化しました。

つまり、実際のリンゴを観察しつつも、リンゴそのものではなく、リンゴと画面の関係性を描く必要があります。「え?それって何が違うの?」と感じる方も多いと思うので、「画面を描く」という意識が低かった時に、実際に自分がやっていた失敗例を挙げます。

特にやりがちな例

こんな感じで、自分は実物のリンゴを忠実に描いているつもりなのに、画面を意識していないので、他の人から見たら絵としては全然ダメだった、という失敗をする事が何度もありました。

さらに、上の図は実際よりも要素を単純化しているので、現実では問題がもっと複雑に入り組んでいることが多いです。

これがかなり厄介で、予備校では大小さまざまなモチーフを組み合わせ、陰影や質感なども考慮して複雑なデッサンを描いていくので、出来上がった画面で上のような失敗をしていても、描いている私が自力で「画面への意識が無いから下手なんだ」という根本的な原因に辿り着くことが難しいです。

さらに、これは個人的な捉え方の1つに過ぎないので、表面的にはみんな同じ感じで絵を描いているようにしか見えず、他人の作品からそれを読み取るのも難しいです。

なので、自分より圧倒的に経験値と技術力のある講師にそれらを指摘してもらう事で、自分の意識の外側へ感覚を広げていく事がとても大切だと感じました。

実際に講評を受けるときって、(あ~この辺はあんまり描けなかったから指摘されるだろうな~)と自分でも絵の改善点をある程度自覚している場合が多いのですが、そういうときに自分の予想から完全に外れた、意識の外からの指摘をされると本当に驚きます。

また、これらの感覚は不可逆なもので、実感してしまうと前の状態に戻るのは難しいと思いました。一度でも画面全体を意識するということを感じてしまうと本質的には前の状態に戻ることが出来ない気がします。

(一度自転車に乗れるようになってしまうと、乗れなかった頃の感覚を思い出すことが出来ない。また、表面的に自転車に乗れない動きを再現することは出来るけれど、感覚まで当時のものを思い返すことは出来ない……みたいな)

ただ、そういう感覚を実感できたとしても、実際にそれを画面に落とし込めるかどうかは別の話なので、分かっていても描けない……みたいなことも普通にあります。実際に私は、上に挙げた失敗例の「画面内でのモチーフ同士の関係性が破綻している」を受験直前まで指摘され続けました。


② 現実よりも美しく描くこと:嘘について


予備校に入ったばかりの頃は、デッサンは「現実を美しく再現するもの」だと思い込んでいたのだけれど、めちゃくちゃデッサンが上手い人は「現実を超えた美しさを描く」ために嘘をつくことがあります。

つまり、現実の対象の都合が悪いときは、画面の中で嘘をついて対象を美しく修正して描くということです。

あくまで例

例えば、デッサンでリンゴを描くとき、太陽の位置の関係で逆光 (光の向き)にしか見えないのだけれど、逆光でデッサンをするとどうしても影の収まりが悪く画面が映えなくなってしまう場合は、あえて順光を"想定"した嘘のデッサンを描くようなことがあります。

他にも、対象に対してあまりにも正面すぎる位置からデッサンをする事になった場合、正面からだと側面の情報を描けず、立体感が損なわれてしまうので少しだけ角度をずらした"想定"で嘘のデッサンをする事があります。

自然物を描くとき、自分の位置からだと左右対称にしか見えないけど、自然物を左右対称に描くと違和感が出るので、あえて一部を崩して非対称にするケースなどもあります。

(※あくまでそういう場合がある、というだけなので上の図ほど露骨に嘘を描くケースは少ない。逆光が悪いということでもない)

大学側も受験生に現実を完璧に写し取ってほしいのではなく、魅力的な美しい画面を描いて欲しいと思っているので、画面の為なら、現実の正しさに縛られずにあえて嘘を描くという選択肢も、場合によってはありになっています。

私は現実をそっくり写し取ることにばかり意識を向けていたので、講師の方に「画面の中で矛盾がなければ嘘を描いてもいいんだよ」と言われたとき、かなり驚いた記憶があります。


③ メタ読みバトル:何を描くかについて


私が主に志望していたデザイン科の入試内容は

「ものを切る両手」を想定してデッサンしなさい

今考えたそれっぽい問題文

みたいな感じで、人によって解釈が大きく変わるような問題文を出題してきます。

「ものを切る両手」の場合は、"ハサミで紙を切る両手"でも、"包丁で野菜を切る両手"でも、"チェンソーで丸太を切る両手"でもなんでもOKで、問題文に沿っているテーマであればどんな絵を描いても採点してくれます。

極端な例だと"勇者の剣でドラゴンをぶった切る両手"でもOKになります。

この入試では、デッサンの描画力が重要なのは当たり前ですが、それと同じくらい「何を描くか」も重要になってきます。テーマ自体のユニークさ・創造性も採点に加味される可能性があるのと、「何を描くか」で画面の見栄えや難易度が大きく変化するからです。

例えば「ハサミで紙を切る両手」と「勇者の剣でドラゴンをぶった切る両手」を比較すると、デッサンとして描く難易度は明らかに「ドラゴンをぶった切る手」の方が不利です。

"勇者の剣"も"ドラゴン"も存在しないモチーフなので、ハサミに比べて想像して描く事が圧倒的に難しいからです。

「イラスト」ではなく「デッサン」の試験なので、描くモチーフのリアリティが必要になります。ハサミの材質や細部の造形は何となくイメージ出来ますが、剣とドラゴンはその場で表面の材質や造形を決定して描く手間が掛かります。

一方で画面映えや創造性、他の受験生とのネタ被りに関しては圧倒的に「ドラゴンをぶった切る手」の方が有利です。ドラゴンを両断する画面は明らかに派手だし、描いている受験生の創造性やチャレンジ精神がうかがえます。さらに、他の受験生は思いついても避けるようなネタなので、ネタ被りも少ないと考えられるからです。

結論として「ハサミで紙を切る両手」はローリスク・ローリターンの堅実なアイデア、「勇者の剣でドラゴンをぶった切る両手」は上手く描けたら高得点が取れるかもしれないけど、技術不足だと完成すらできずに悲惨な点数を取りかねないハイリスク・ハイリターンなアイデアになります。

こんな感じで、入試では単純な描画力を競うのではなく、アイデア力やメタ読み、総合的なバランス力など色々な能力を問われます。これは美大受験を始める前の、ただただ描画力を競うイメージと違っていたので、個性的で面白いと感じました。

デザイン科の授業でも、入試と同様にアイデアがありきたりすぎるとそこまで評価されず、ユニークで意味のあるアイデアの作品は高く評価される事があります。ちなみに、ただただ変なだけで、そこに意図や設計(デザイン)の無い作品は一番悲しい事になります。


その他:美大受験で感じたこと

意識の高さについて


美術予備校に入ったばかりの頃は、意識の高さにびっくりした記憶があります。作品講評の度に「君たちはデザイナーになるんだから○○くらい知ってなきゃだめでしょ」「そんな考え方だと美大入った後に困るよ?」みたいなことを結構言われました。

受験指導ってむしろ逆で「とりあえずお前らに知識を詰め込んで大学に合格させるから、後は好きに成功したり失敗したりしろ。責任は取らん」みたいな感じだと思っていました。しかし、自分の予備校はデザイン科に合格した人が全員デザイナーになることを前提として指導をしている感じがしました。


「弘法筆を択"ぶ"」について


予備校入学から4か月後くらいに起きた出来事です。

私は色彩構成 (絵の具で描く課題)で、Amazonで買った1本100円以下の超激安な筆を使用していました。あまりにも知識が無さ過ぎて、何を買っていいか分からず、入学時に購入したものをそのまま使っていたからです。

あるとき、講師の方に「その筆、絵の具の伸びが悪すぎる」「いくら?」と尋ねられました。

100円以下であることを正直に伝えると雰囲気的に怒られると感じたので「200円です」と言いました。マジでキレられました。そのまま財布を持って授業を抜け出して画材屋に向かい、勧められた1本800~1000円くらいの筆を購入しました。

教室に戻ってその筆を使ってみると、毛が良いので絵の具の含み量が多く、筆先から出る絵の具が増加し、1ストロークに塗る量が3倍くらいになって、描画速度が格段に上昇しました。

めちゃくちゃ道具って重要やんけ!と思い、感謝の意を講師に伝えると
「弘法筆を択"ぶ"、だから。今後も、何か作品を作り続けたいのなら、道具は大切に選びなさい。」と言われました。

上記の出来事は、今でも強く印象に残っています。



描き続ける難しさについて


予備校に通って絵を描き続けないと、絵は中々上手くならないですが、そもそも予備校に通い続けること自体が難しいと感じました。

精神的な面だと、予備校では毎日のように作品の講評を行うので、周囲との実力の差や自分の欠点を常に突きつけられるというのがあります。感覚的には中学や高校の定期テストを毎日行い、その結果が常に廊下に張り出されるような感じです。

さらに点数ではなく「絵」という視覚的な情報の優劣なので、実力の差が一目瞭然で分かりやすいです。また、毎日行うので定期テストのように急激に成長した!上の奴より上手くなった!みたいな実感はあまりありませんでした。

自分の絵に対して厳しく評価される事は一般的にはあまり無いと思うので (基本的に遠慮した意見を言われるので)、それが苦手だとかなりキツイ印象を受けました。実際に4月辺りは、講師から絵の指摘を受けた直後、教室から飛び出してそのまま来なくなってしまった人等が居ました。

私は最下位あたりをウロウロしているタイプでしたが、自分の絵の欠点を考えて改善していくサイクル自体を楽しんだり、他の人の作品の講評を聴く事を楽しみにやって(思い込んで)いました。しかし、肌感覚だと講評で下の方に位置している人の方が、予備校に来なくなってしまう確率が高い気がします。

経済的な面では、美術予備校や私立美大は学費が高いというのはなんとなく知られていると思いますが、学費だけでなく立地との関係もかなり大きいと感じました。

私が美大を志す前から知っていた東京藝大・多摩美・武蔵美のような有名美大は全て東京にあり、大手の予備校も東京にあるので、大学に合格してから上京するのではなく、予備校に通う為に上京してきている人が多かったです。

上京しながらの予備校通いだったり、昼は予備校、夜はバイトの生活を送っている友人が周囲に複数いました。美術系を志望する前・受験期・入学後、どの段階でも経済面で描き続ける事の難しさを感じる機会が多いです。

様々な理由があると思いますが、予備校の自分のコースに通っている人は、最終的に4月と受験直前で体感1/3くらいの人数まで減っていました。


感覚の違いについて


上の方で何度も書きましたが、絵を描く事において「万人に共通する答え」は存在せず、自分に適した考え方や技術を探っていくしかないと考えています。ただ、描く事に関してあまりにも自分と感覚がかけ離れていたり、技術やプロセスとして全く異なる方向から戦略を組んでいる人が結構いて印象的でした。

「勢いとノリで描いてるので技術的なコツや体系的な考えとか全然分からん」と言いながら凄いスピードで超上手いデッサンをする人や、「これが一番やりやすい」と言って私からしたらマジでありえないようなプロセスの描き方をしているのに最終的には美しい画面にまとまる人などが居ました。他にも、実技科目の実力的に合格が確実なので特に講師が指摘するようなこともないため、1人だけイヤホンを付けて音楽を聴きながら絵を描いている人なども居ました。

思考のプロセスなど個々人で手法が異なるのは当たり前だと学びましたが、実際に絵を描くという視覚的な情報でそれらを実感できたのは貴重な体験で良かったです。


2023年:美大入学

① 美大で何をしているのか


美大受験を終えて複数の大学から合格を頂き、デザイン科に進学しました。私の学科では主に平面から立体、WebやUIなど色々な領域のデザインに触れます。1年目は主に平面と立体のデザインの基礎を中心に学びました。

予備校では「合格すること」を目的に作品制作をしていましたが、美術大学では「デザインを学ぶこと」を目的に作品制作をする事になります。

また、「大学入ったから自由に作品作りまくってやるぜ!個性爆発!」みたいな感じではなく、授業毎に課題を提示され、それに合う作品を制作する流れが基本になります。(勿論、課題に沿いつつも、自分のやりたいことを美しく盛り込んだ質の高い作品を作る人もいます)


② 作品制作の主な流れ


大まかな制作の流れを上の図にしてみました。最初に課題内容を確認し、関連しそうな情報を集めたり調査に出たりなどリサーチを行います。自分の作品のテーマや方向性がある程度決まったら、それを教員に相談します。本当に制作できる作品なのか、課題内容と作品にズレが無いかなどを確認しておきます。

この案で行けそうだなと思ったら、本番の制作に入る前に作品のプロトタイプ(試作品)を作って規模感を把握したり、素材を考えたり、技術的な問題点の洗い出しを行います。ここまでやって大丈夫そうであれば、実際に道具や素材を集めて制作をスタートさせます。

制作の途中に「中間講評」があります。ここで制作途中の作品を教員にレビューしてもらい、そこで指摘された点を改善して最終講評に臨みます。

また、1つの作品を制作するのにおよそ1~3ヵ月掛かる場合が多いです。これが美大の特徴で、美術予備校と比較すると美大での作品制作は1つ1つの規模がかなり大きくなります。


③ 美大で何を学んでいるのか


上で述べたように、1~3ヵ月スパンで作品に取り組むなど、制作の規模が大きくなるのが私の学科の特徴です。

加えて、大学では複数の授業が同時に進行しているので、作品制作も2~4作品くらいを同時並行で進めることが多いです。個々の作品の進捗もバラバラなので、進捗の管理やリソースの割り振りが重要になります。

さらに、課題毎に全く異なるものを制作するので、そのために使用する技術・考え方も大きく変化させる事が多いです。資材加工用のデカイ機械を使ったり、今まで聞いたこともないような分野の知識を扱うこともあるため、「知らなかったこと」に直接触れる機会が増えました。

なので私の学科では、特定の技術を磨くような能力も勿論学んでいるのですが、それに加えて、新しい領域を学ぶ技術や、異なる技術を効果的に組み合わせる能力など、デザインに限らず色々な領域の学びを効率的に進めるためのメタ技術を学んでいる気がします。

技術の為に目的を定めるのではなく、目的を解決する為に、適した技術を選択することが多いです。

こんな感じで色々な作品を同時並行で制作しつつ、座学の授業を受けたりするような大学生活を送っています。

というか、いざ大学に入ったら絵を描いたりするよりも、つなぎを着て素材を切ったり叩いたりヤスリで削ったりする事の方が全然多いですね。


④ 創作活動全般の能力が底上げされる感覚


私はSNS上で主にイラストやアニメーション(映像作品)を投稿していますが、大学1年の授業にイラストや映像制作の課題は無いので、直接的にはそれらの指導を受けていません。

しかし、この1年間美大に通った事で自身のイラストや映像作品のクオリティがかなり向上したと感じました。いくつか要因は考えられますが、その1つとして、大学での作品制作のおかげで、今までよりも長い制作プロセスを完遂出来るようになったことがあると思っています。

趣味で作品を作る時の大まかなプロセス

図の上が1年前の制作プロセスで、下が現在の制作プロセスです。画力が上がったとか編集技術が上がったというより、作業の道具やステップ数自体が全体的にかなり増えました。

1年前の段階でも個々の技術は扱えていたかもしれませんが、それらを1つの作品に組み上げることは出来なかったように思います。

昨年3月の作品

今年3月の作品

もちろん、描写力や映像編集技術など個々の技術力も上がっているとは思うのですが、それ以上に制作のプロセス自体が増えたことによって画面に詰める事の出来る情報量自体が大幅に増加していることが、作品のクオリティ上昇に大きく寄与していると感じました。


その他:美大生活で感じたこと

常に考えることについて


予備校自体よりも学びの広さや環境、人種など全て規模が大きくなるので、デザイン・創作活動・作ることなどについて学ぶ・考える機会が急激に増えます。

日常で使う言葉や思考が周囲の人間関係に影響されるというのはよくある話ですが、毎日のようにデザインや作ることについて会話や思考をしています。また、自分が「美大生である」という自意識も行動に大きく影響している気がします。

美大に入る利点として、これは特に大きいと思いました。


他の大学との違いについて


これは予備校時代から感じていたことですが、上の方で述べた「絵を描くことに絶対の正解は無くて、個人で最適解を見つけるしかない」というのは、主に一般大学で行われている、科学的に立証された(今は)正しいとされる知識を理論的に蓄積、操作していく考え方と、そもそも根本からやっていることが違うと思っています。

時々、別の理系・文系大学の友人と会話する機会があるのですが、学びの目的や評価の客観性、個人の主観性の扱いなど、全体的な考え方そのものが美大とその他の大学で結構差がある気がしました
(当たり前の事を言っているかも……?)


「個性?」について


平面作品や立体作品など表現の形式を跨いで作品を作ったとしても同じような特徴が現れることがあり、それが「個性」と呼ばれるものなのではと感じることがありました。


Twitterでの活動

① P1PEについて


元々イラストや映像などのオリジナル作品(というかテーマの無いよくわからない作品)を投稿をしていましたが、大学合格が決まった2023年の3月辺りにアイコンとして分かりやすいキャラクターを作り、それを描くようになりました。

特に名前は決めていませんでしたが、私の名前がP1PE (パイプ) なので今は「パイプくん」と呼んでいます。

ちなみに、今はVer2.0にアップデートしています。初期は手足を線表現にしていたのですが、それだと背景色と被った時に見えにくくなる場合があるので、手足を太くしました。

ありがたいことに2024年4月1日ちょうどにフォロワーさんが5000人を超えたので、P1PEとして活動する中で創作やTwitterについて思った事を以下にまとめます。


② 自身を彫る感覚:続けると分かるものについて


大学の制作と異なり、P1PEとしての活動は趣味で始めたものなので、なるべく自身の好きなことを掘り下げようと考えています。

そのため、他のクリエイターさんに比べて、作品ごとの雰囲気やフォーマットがバラバラである事が多いです。ただ1つだけ「パイプくん」が関係すること、というルールを設けています。

こんな感じで、色々な作品を自由に作り続けていると、自分が何を好きだと感じているのかが徐々に分かってきました。

自分は「曖昧さ」をなるべく排して整理していくのが好きで、上図のような本当に微妙な違いでも画面全体で方向性を合わせていくと、最終的にすごい力を発揮するような作品作りが好き、という事に以前よりも自覚的になりました。


③ Twitterと数字:制御出来ないものについて


私はTwitterが好きで、特にフォロワーやいいね数など、色々が要素が数値として確認できることが好きです。また、数字を増やすことも好きなので、数字の為に創作活動をしている部分が大きいと思っています。

一方でそれらの数字は自らの手で制御できるものではないとも思っています。自分が出来るのは作品を制作し投稿することだけなので、数字を目的としつつもそれらを直接的に制御できるものとして捉えないようにしています。

また、Twitterの評価軸はかなり複雑なので、それとは別に自分自身の評価軸を持って作品制作をすることを心掛けています。

個人的には、自分の中でよく出来たと思った作品がTwitterであまり反応が無かった時よりも、そこまで良いと思っていなかった作品の反応がやたら良かった時の方が精神的な揺らぎが大きい傾向があります。その後の作品制作でも、元々作ろうとしていたものではなく数字に影響されたものを無意識に作ろうとしている事に気が付いて「うわあああ」みたいになる事がありました。

また、同じような数字の強さとして、どんどん大きい方向にスケールしていくので感覚が狂ってくることがあります。去年の4月辺りは30いいねも付けばかなり反応されている感覚だったのですが、今は1000いいね以上の反応が来ることも多く、通知欄は常に何かしらの通知を示していて、そういう状況に自分が慣れてしまっている事に驚くことがあります。

ゲームの数値だったら分かるのですが、Twitterは向こう側に人間が居るので、1000人もの人が反応を……!?みたいな事を考えるとシンプルに怖くなることが多いです。「Twitterのフォロワー数はファンの数ではなく、自身に向いている銃口の数である」という言い回しがあり、個人的には銃口というより"目"の感覚ですが、そういう言葉の意味が前よりも分かるようになりました。

さらに自身の「数字の増加が怖いなら作品投稿しなければいい」という考えに対して「それは違う」「数字は増えて欲しい」等の矛盾した思いを感じるなど、こういうことをずっと考えていくとどんどん視界が「ぐにゃあ~」と歪んでくるので、制御できない数字に対してはある程度のバランスを取りつつも、数字増えて良かったな~程度の気概でいることを意識しています。

また、美大受験の話でも述べましたが、上のような"感覚"は拡張されると、以前の状態を思い出せなくなってしまうので、今後もフォロワーが増え続けると今のような気持ちはいずれ忘れてしまうかもな~と思っています。なのでこの機会に思っていることを記録しておこうと思い、文章を書いています。


その他:Twitterで感じたこと

ネットワークについて


既に言及され尽くしていますが、Twitterはネットワークのゲームなので、作品の良し悪しよりもどのような繋がりを持っているかが数字に直結していると感じます。

「フォロワー1000人まで行けばそれ以降は勝手に増えていきます!」という言葉をよく目にしていたので、数字が増えるほど数字が増えやすくなるものだと考えていましたが、現状の私くらいだと自分のいる分野やネットワークの形に大きく依存しているように思いました。


フォロワー数について


1年前の自分は、フォロワー数が「5000」も増えたらなんか凄いことになるのでは、と漠然と思っていたのですが、個人的な感覚や生活では特に大きく変化するようなことはありませんでした。もしくは、実際の変化は緩やかに起こっていくので、いきなりバズったりしないとあまり実感できないのかもしれません。

これも10万人とかになったら変わるのかもしれませんが、案外そういう人も「思ったほど劇的な変化ではなかった」と感じてるのかもな~と思ったりしました。

あと、別にフォロワー数やいいね数は減ってもおかしくはないのに、私は数字が今後も増え続けていくと信じている気がします。


技術力について


個人的には、自分は作品が上手くなったからフォロワーが増えたのではなく、フォロワーが増えたから作品が上手くなったのではと考えることが増えました。

上の「美大生活で感じたこと」に通じる内容ですが、フォロワーが5000人もいるから適当な作品投稿できない……! みたいな勝手な思い込みが、自分の能力や感性をかなり引き上げている気がします。


呟きについて


作品に興味があってフォローしてくれている方々に、全く関係ない作者の思考を文章の形で発信できるのは凄いけど恐ろしくもあるな……思います。


おわりに:4年間を振り返って

長い!軽く書くつもりで色々思い出していたら、14000文字になってしまった!

思い返してみたら、2020年以前は学校や趣味で何をしていたのかあまり覚えていないんですが、趣味でイラストや映像制作を始めてから、色々な経験を1つの束として練り上げている感覚があってよかったです。

(それ以前も何かを積み上げていたと思うけれど、作品のように明確に可視化される事は少ない?今思ったけど、作品を作るとその当時の記憶が結構残るので、人生の記憶装置の役割が大きいかもしれない)

次の4年も何かしら楽しく作る方向に向かっていたら良いな~と思います。

今後、このnoteで述べたような価値観が丸ごとひっくり返されるような出来事が起きたり、全く別の分野へ興味が移ったり、全てがどうでも良くなるようなことが起きるかもしれないけれど、時々は自分が作った作品を見て、あ~こんなことあったな~とか思い返せたらいいな~

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おわり

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