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にがうりの人 #36 (人面獣心)

 正気の沙汰とは思えないその話に私は持ち前の安い正義感を全身に漲らせ、震えていた。

 何が悪で何が正義か。その線引きすら危うくなっている昨今とはいえ、目の前でとうとうと語られる悪魔のような所業には正しさの微塵も感じられなかった。ただ、その時の私には悪魔に正々堂々と対抗できる知識や経験も無く、憤ることしか出来ないでいた。
 私は私の気持ちが正しい事を確認するかのごとく、高峰に視線を送る。彼は今だ無言のまま、依頼人の話に耳を傾けていた。
「それで面倒くさい女が一人おんねん。まあ、早い話、そいつにガキ出来てもうたんや。いつもならこういう話は適当に金掴ませりゃ済むんやけど今回ばかりは訴えるってきかへんねん。なんとか黙らせてくれや」
 蒲田本人の話ではこういった事は一度や二度ではないようだった。ただ、今回だけはイレギュラー、つまり大事にされそうな様子らしい。
 蒲田は終始、横柄な態度であり反省の色は垣間見えない。私は必要以上に感じていた怒りのやり場に困り、やがてそれは呆れに変わった。    
 この手の人間の価値観はきっと一生変わらない。高峰に目をやると、彼は姿勢を正し口を開いた。
「わかりました。しかし、事が事だけに少しお時間をいただけますか」
 予想外の返答に私は驚いた。この事務所に勤めてまだ一年足らずではあったが、私なりに法律家という職業がどういったものか見えてきていた。決して漫画やドラマになるような華やかな仕事では無く、むしろ事務的で地味な業務が多い。依頼人の依頼は忠実に守らなければならないし、それゆえ他人を傷つけてしまうことだってある。法律は決して弱い者を守るために存在するのではない。結局のところ強者有利に作られている事のほうが多い。
 しかし高峰はそんな現実を目の当たりにしながら、どんな小さな案件でも弱者であれば権力に歯向かうほどの気概がある弁護士であった。それゆえ、経営難だけでなく敵も作っているようだった。だがそれこそが高峰の魅力であったし、なにより私が一番近くで感じていた。
 そんな高峰が明らかに犯罪の片棒を担ぐような依頼に対し、受任をほのめかしたのだ。青さの残っていた私は気色ばんで高峰に詰め寄った。
「先生、どういうことですか。どうしてこんな男の依頼を受けるんですか」
「口を慎みなさい」
 高峰はそう私を一蹴すると、私を間仕切りの向こうへと追いやった。これではまるで私が悪者である。
 仕切り一枚向こう側では相変わらず会話が交わされていた。私は切歯扼腕し、やがてそれが悲しみに変わった。

 それから三十分程すると応接間から肩で風を切って蒲田が、それに続いて高峰が現れた。蒲田はそのまま出口へ向かったが、急に踵を返し私に近づいてきた。
「お前ももうちょっと学べや。世間の風向きを読まへんと馬鹿見ることになるで」
 男は私の肩を叩いて言い、いやらしい笑みを浮かべると事務所から消えた。

続く

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