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にがうりの人 #37 (忍び寄る瑕疵)

「先生。一体どういうおつもりですか。僕は見損ないましたよ」
 口幅ったいとは知りつつも身勝手な不満をぶつけると、高峰は黙って一枚の写真とA4の書類を私に差し出してきた。そこには目鼻立ちははっきりしているが長い黒髪で地味な印象の女性が写っており、書類には彼女と思われる名前が記されていた。それは私の覚えた憤りに色を添えるほど生々しいものだった。
「この方が、被害者の方ですか?」
 私は震える声で高峰に聞いた。まるで刑事のような言い回しも、現実であってほしくない希望からかもしれない。私は自分でも恐ろしく険しい表情をしているのが分かった。しかし、高峰は動じることなく超然としている。
「被害者も加害者もない。あるのは依頼人とその依頼を遂行する者のみだ」

✴︎

「職業を問わず、仕事に私情を挟んではいけないよ。仕事が私事になってはいけないんだ。わかるかい?」
 私が少しずつ仕事を任されるようになった頃、高峰はよくそう言った。しかし、高峰のその言葉に私は今ひとつ納得がいかなかった。なぜなら私の目には高峰ほど情にもろく、金に執着せず感情で動く弁護士もいないように映るからである。私がその点について問いただすと、彼は相好を崩しやがてコロコロと笑った。
「そうかもしれないなあ。でも少なくとも私自身の気持ちとしては私情を挟んで受任した依頼は一度も無いよ。ただ」高峰は少し考えた後、再び口を開いた。
「結果として私情を挟んだように見えてしまっているのかもしれないなあ」
 そしてまたコロコロと笑い、「それじゃあ、結局同じことか」と付け加えた。

✴︎

 蒲田の来所から数日がたった。私は庶務を任され、高峰は朝から不在だった。どうやら一人で蒲田の案件を精査しているらしい。
 陽気は日に日に夏らしくなっており、空調が能力以上の頑張りをみせて事務所内をキンキンに冷やしている。午後になるとよりいっそう暑さは増しているようだったが、屋内にこもっている私には分からなかった。
 弁護士が不在のためやれることは限られていたが、それでも二人分の仕事をこなすことは困難を極めた。日が傾き始めた頃、ようやく一段落つき食事をとる為外出の準備をしている時に事務所の扉が開いて、汗だくの高峰が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ、留守番ご苦労だったね」
 高峰はハンカチで汗を拭いつつ言った。ここのところ彼は事務所で寝泊りするほど、仕事詰めであった。表情が疲れている。
「どこかへ行くのかい?」身支度をしている私に高峰は視線を投げてくる。
「食事まだとっていなかったもので」
「そうか。悪かったね。ゆっくり行っておいで」
 高峰はビジネスバッグを机の上に置くと外出しようとしている私を思い出したように呼び止めた。
「今夜一杯付き合わないかい?」
 私は驚いた。高峰は下戸で弁護士仲間の会合でもほとんど酒を口にしない。それだけに私は彼の気持ちを察すると胸が痛んだ。

続く

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