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もう一つの「社会人」 -- アーレントやハーバーマスの「世界」論から

つねづね疑問に思っていたことがある。「社会人」という言葉の意味するところである。 果たしてそれは何を指すのだろう。言葉通り受け取るならば、おそらく「人間集団に属する人」程度のことを指す言葉なのだろうが、どうも現状、より限定的な意味 で通用しているように聞こえてならない。

 「まあ、学生のうちにバイトして社会人経験積んどいた方がいいよ。」
 「卒業おめでとう!立派な社会人として大成していくことを祈ります。」
 「まったく困るね...。君は一体いつになったら社会人としての自覚を持つんだ!」
 「いつまで親のすねかじってるつもり?ちゃんと社会人になって親孝行しなさいよ。」

これら諸例文の内容をすんなりと理解できるのであれば、我々は特定の共通認識として 「社会人」という言葉の意味を内面化しているに違いない。要するにほとんどの場合、「社会人」とは「労働人」である。より広く言えば、なんらか市場経済での活動に従事する人間の性質のことである。自らの経済活動によって自身の生計を立てる人間像をもってして、 我々はそれを「社会人」と呼称する。そしてこの「経済人=社会人」の像は、真っ当な輝かしい生き方のモデルを示すことで、我々の生を特定のあり方へと駆り立てる規律的な作用を果たしているようにも思う。

しかし、そもそもなぜ市場での経済活動こそが、人間を「社会人」たらしめる判断基準としてみなされているのだろうか。社会学者でさえ説明しがたいこの「社会」という言葉は、 およそ市場経済の領域だけに限定されるべき概念ではないだろう。仮に「社会」を、複数人 が相互の存在に依存する形で成り立つ集団、として定義するならば、我々は昼夜問わず仕事に身魂を注ぐ中で、何か他に価値のある「社会」領域を失い続けてきたのではないだろうか。

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こうした疑問に対して政治哲学者のユルゲン・ハーバーマスは、主著『コミュニケーション的行為の理論』で有益な議論を展開している。ハーバーマス曰く、近代とは、お金(市場経 済)や権力(官僚政治・資本の支配)を通じて人びとが互いの要求や行為を調整し合う、「シ ステム合理性」の領域が幅を利かす時代である。そこでは、お金や権力といった媒体を活用することで、まどろっこしい言い争いをせずとも手っ取り早く利害を調整できるため、我々は多少人間関係を円滑にさせることができるのだ。

ところがそうした「システム合理性」の歩みを必要以上に追求し続けてしまった挙句、 我々は知らず知らずに、ある貴重な社会領域を土足で踏み荒らしていった、とハーバーマスは嘆く。すなわち「生活世界」の領域である。

「生活世界」とは、人びとが言葉によるコミ ュニケーション(=「対話」)を通じて、互いに意見や体験を共有し合う時空間である。またそれは、そこで相互に了解された知識や見解が文化的に伝承・刷新され、その対話に従事 する個人のアイデンティティや人格の形成に寄与するような領域でもある。

市場経済・資本 制生産・官僚制といった「システム合理性」の領域は、時間や忍耐を要する対話の領域であ る「生活世界」を侵略していった。その結果、文化、自己のアイデンティティ、そして生身の人間同士の連帯といったものを育む機会を、近代以降の我々は半ば喪失しかけている。

こうしたハーバーマスの見立ては、ハンナ・アーレントがその主著『人間の条件』で示した洞察とも通じ合う。

アーレントは人間が持っている活動力を「労働」、「仕事」、「活動」の 三つに分けた上で、近代社会では、生命維持のための人間の生物学的欲求である「労働」の 営みがあまりにも肥大化していると喝破した。かつては「生命維持」という消極的な意義し か持たなかった「労働」に、近代以降には「自己実現」や「承認獲得」など積極的な意義が 付与され、いまや人間は自ら進んで生産-消費の無限のサイクルに従属するに至った。

こうした中で、3 つ目の活動力たる「活動」の機会が「労働」によって奪われてしまうと、 アーレントは危惧した。「活動」とは、複数の人間同士が言葉を介して自身を表現し合う営みを指す。「活動」を通じてこそ、人びとの共通の認識や価値の基盤、すなわち「共通世界」 が育まれ、そうしてはじめて、人は他の人びととの関係の中で生きることができる。ところ がいまや、「労働」の膨張によって「活動」領域が侵食され、人びとは「共通世界」から引 き剝がされてしまっているのである。こうしたアーレントの指摘は、まさにハーバーマスが 警鐘を鳴らした「生活世界」の衰退と符合するところにあったといえよう。

ただ、アーレントは「活動」の後退化を懸念するだけにとどまらない。2つ目の活動力で ある「仕事」が損なわれることも、彼女は近代が孕む問題として捉えていたのである。

「仕事」とは、人間が自らの思考や構想を製作物として体現することを通じて、もともと自然には存在しない安定的で永続的な(自分が死んだ後も残るような)「世界」を新たに世に創り出す営みである。アーレント曰く、この「仕事」と先の「活動」とは相互補完的な関係にあ る。たとえば、誰かの「仕事」によって生み出された書物や芸術作品などに応答する形で、人びとは言葉を通じた「活動」に従事しうるだろう。それのみならず、そうしてなされた「活動」もまた、なんらかの耐久的な製作物として表現されることによって、それが 「仕事」の営みへと連なるのである。

近代化が進むにつれて、次第に「仕事」の営みは「労働」に代替されていく。自立的な製作人が有した創造性は、資本の強制の下で働く賃労働者のうちにはもはや存在しない。そこ ではファストファッションのような短期消耗品ばかりが生産され、かつての製作物はお金 で取引される「価値」の体現物、すなわち「商品」へと変質する。賃労働者は構想と実行の分離ゆえに「疎外された労働」に従事するだけでなく、「仕事」による製作物を通じた他者との内面的な関わりからも疎外(=「世界疎外」)されているのである。

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対話を通じた意見共有や了解達成の場としての「生活世界」。「仕事」や「活動」を通じて 人びとが内面性を共有しあう場である「共通世界」。お金や権力を媒介しないそうした社会領域の意義を、近代以降を生きる我々はどうして積極的に見出すことができようか。そこに は言葉や言論があり、創造物や贈与がある。そうした市場の外における自由な結社を、私は希求してやまない。

市場外部でのアソシエーションの領域を拡大するには、まずは市場内部での労働の領域 を規制していくほかない。そこでは賃労働の搾取に限らず、直接 GDP には反映されないような家事労働の収奪にも目を向ける必要がある。また昨今の気候変動問題で話題に上がる、 労働を通じた人間以外の自然との関わり方についても無視することはできない。「労働」の 領域はいかにあるべきか。私の今後の思索課題はそこにある。

さて冒頭の疑問に戻ろう。「社会人」とは一体何を意味するのか。近代資本主義社会の輝 かしい発展とともに後景に退いてきた別の「社会」が、地味でありながらも人の気を匂わす 記憶として、いま私にそう問いかけている。




参考文献
⚫ アーレント,ハンナ『人間の条件』筑摩書房,2017 年。
⚫ 佐藤慶明『ウェーバーからハバーマスへ』世界書院,1986年。
⚫ 中岡成文『増補ハーバーマス——コミュニケーション的行為』筑摩書房,2018 年。
⚫ 仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』作品社,2014 年。
⚫ 百木漠『アーレントのマルクス——労働と全体主義』人文書院,2018 年。

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