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【鎌倉 長谷・由比ガ浜エリア(後編)】 久しぶりの鎌倉②(2019.11.17)

(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事を転載しております)

鎌倉散策その2。
前回に引き続いて【長谷・由比ガ浜エリア】です。
今回は正直に言うと石碑しかでてきませんです、はい・・・。


甘縄神明神社あまなわしんめいじんじゃをあとにした私は、また鎌倉葉山線(神奈川県道311号線)を東に。

すると今度は「鎌倉文学館入口」の交差点を左に入っていきます。
そしてしばらく進むと、文学館入口への道となって、なんかいい雰囲気。

ここ何気に良かったなぁ~。
ちょっと登りになってますけど、ここを頑張ってテクテク進みます。

およ?いますね~。例の石碑

はい、鎌倉町青年団の石碑その2「長楽寺跡ちょうらくじあと」です。

この長楽寺は石碑に書いてある碑文によれば、嘉禄かろく1年(1225年)3月に北条政子が源頼朝の追善供養のために建てたお寺で、七堂伽藍がらんを備えたかなり大規模なお寺だったようです。でも鎌倉政権が滅亡した元弘げんこう3年(1333年)5月の鎌倉市街戦の兵火で焼失してしまったようです。

この長楽寺はあまり突っ込んで調べてないのですが、どうやら今の鎌倉文学館が建つあたりにあったそうですよ。

で、この石碑に向かって左側がその鎌倉文学館の正門?になります。この日は開館してたようですが、私はここで引き返し~。

鎌倉は近代の文人たちゆかりの地でもあるので、近代文学に興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。


さて、また戻って鎌倉葉山線をさらに東へ。
すると道端にまた現れます。

はい、石碑その3。「主馬盛久の頸座しゅめもりひさのくびざ

これはですねぇ~、石碑の碑文によりますと…。

盛久は主馬盛国しゅめもりくに平盛国たいらのもりくに)の子で、平家累代の家人だったんですが、平家滅亡後は京都に潜みながら、年来の宿願をということで日々清水寺に参詣していました。しかし、その清水寺からの帰り道、ついに北条時政に見つかって捕縛されてしまったのです。

鎌倉へ送られて、文治ぶんじ2年(1186年)6月、ついにこの地で処刑されることになったんですが、その時、首を斬ろうとする刀が折れ散ってしまうなど数々の不思議なことが起こってなかなか処刑ができなかったんだとか。そんなこともあって、結局盛久は許され、その上頼朝から所領までもらったそうな。

ということらしいです。『日本人名大辞典』(講談社)によれば、この盛久を救った数々の奇跡は、日々信心していた清水観音の加護によるものだそうです。
(なんだかよくわかりませんが、ともかく良かった良かった…笑)


さぁ、次はいよいよ今回行きたかった場所の一つへ向かいます。

そのままこの鎌倉葉山線を東に。すると、六地蔵という三差路のやや広めの交差点が出てきます。そしてその交差点の手前(ここも三差路)を鋭角に戻る感じに南へ。そうすると右手に江ノ電・和田塚わだづか駅があり、それを過ぎてさらに30mほど行きますと、左手にちょっとした高台があります。
(案内板とかは特にないので、うっかりしてると通り過ぎてしまいます)

その高台がそう、駅名にもあった「和田塚わだづか」です🎵

まぁ、呑気に音符なんてつけちゃってますが、ここは建暦けんりゃく3年(1213年)5月の和田義盛の乱での戦死者とされる遺骨が大量に発見された場所です。

なんでも、明治25年(1892年)の付近の道路改修工事の際に発見されたそうで、数百体と言われる大量の人骨とともに、土器や埴輪が発見されたそうです。
(えっ、ドキ…?ハニワ…??それって、義盛の時代のじゃなくて古墳時代の集団墓地じゃないのか?)

なんでここが和田一族の戦没地とされたのかは不明ですが、まぁ、あの初代侍所別当さむらいどころべっとう・和田義盛のお墓というのはないと思うので、ここを彼の最期の地と思って、和田さんに思ひを馳せるのも悪くないかと思います。なにはともあれ、南無・・・

なむ…

また、この和田塚には他に関東大震災で被災して亡くなられた方の供養塔などもありますので、合わせてお参りしていただきたく思ひまする。


って、ことで今回はここまでです

次回は【扇ヶ谷エリア】になります。
扇ヶ谷おうぎがやつ亀谷かめがやつとも)、鎌倉に馴染みのない方でも戦国好きな方なら聞いたことありますよね。

まぁ、今回は鎌倉初期の史跡・旧跡を巡る散策なので、それに触れることは少しだと思いますが、ここ扇ガ谷は鎌倉初期も結構登場するエリアなんですよ。

では、今回通ったルートはこちら

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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