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【鎌倉 扇ヶ谷エリア(前編)】 久しぶりの鎌倉➂(2019.11.17)

(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事を転載しております)

鎌倉散策記事③。
前回までの【長谷はせ由比ガ浜ゆいがはまエリア】に変わって今回から【扇ヶ谷おうぎがやつエリア】です。
いよいよここから鎌倉時代初期を偲ぶ史跡・旧跡が出てきます。


和田塚わだづかからまた和田塚駅方面へ戻って、六地蔵の交差点を直進して北上していくと、扇ヶ谷おうぎがやつエリアへと入れます。

この由比ガ浜から扇ヶ谷方面へ抜ける道も古い道で、鎌倉時代にも存在した道でした(江戸時代に今大路いまおおじとか今小路いまこうじと呼ばれます)。

今でもやや道幅は狭いものの、訪れた日が休日だったこともあってか、通行量が多く、地元の人だけでなく観光に訪れている人も多くいらしたので、結構にぎわっていました。
(そういえば、通り沿いになんか行列ができてる飲食店あったなぁ・・・何食べさせてくれるんだろ?笑)


この道をどんどん北上していきます。
すると、こちらの石碑が現れます。

はい。鎌倉町青年団の石碑その4。
問注所旧跡もんちゅうじょきゅうせき」です。

問注所もんちゅうじょとは鎌倉政権の三つの行政機関の一つとされるもので、訴訟裁判を司る役所です。初代執事しつじ(長官)は頼朝の昔なじみ・三善康信みよしやすのぶさん。

まぁ、問注所は政所まんどころ侍所さむらいどころにその職掌の一部が移ったり、権限や管轄が変わったりと、お話ししだすと今回それだけになってしまうので説明は省きますが、所在地に関して一つ夢のないことを申し上げますと、せっかく鎌倉町青年団の方々が建てた所在地を示す石碑・・・これには大きな疑問が残ると言われてしまっています(奥富敬之『鎌倉史跡辞典』 新人物往来社 1997年)。

当初、問注所は大倉御所おおくらごしょ(頼朝の御所)内の一角を間借りしておりましたが、次第に仕事量が増え、職務が煩雑になったために大倉御所の敷地内に別棟を建てて、政所、公文所くもんじょ(政所の前身)などと隣接してあったようなのです。

その後、熊谷直実くまがいなおざねさんが裁定を不服として騒ぐなどしたため、やがて大倉御所内の三善康信邸に移ったり、その所在地も二転三転したことが知られていますが、基本的に大倉御所の近辺(鶴岡八幡宮の南東角付近)にあって、こちらに移ったとする記録はないんだそうです・・・。なので、この問注所跡地は史料的に実証できていないのです・・・。(残念!てか、結局長くなってる…はよ、次行きなさい)


ということで、さらに北へ進んでいきます。
すると、また現れます。例の石碑が。

鎌倉町青年団の石碑その5「源氏山」です。

とりあえず、源氏山の話は次回にまわすとして、この石碑の後ろ、ここが私の今回の鎌倉散策で来たかった場所の一つなんですよ~。

正式名称は亀谷山きこくさん寿福金剛禅寺じゅふくこんごうぜんじ。そう、寿福寺じゅふくじです。

寿福寺は正治しょうじ2年(1210年)に、臨済宗りんざいしゅうの開祖として知られる栄西えいさい/ようさいを開山、北条政子ほうじょうまさこ開基かいきとして開かれたお寺です。

この寿福寺は残念ながら本堂など伽藍の内は非公開なので入れません。ですが、それを補って余りある景色がございまして…。

こちらでございます。
寿福寺参道。ここの写真をぜひとも撮りたかったんです。以前よく鎌倉へ来ていた頃に撮った写真を失って以来、再び撮りに行きたい!と願って、この日ようやく叶いました。

この日、国際色豊かに訪れている方も多くて人が途切れることはなかったのですが、ちょうどというか奇跡的に参道に誰もいない状態になりましてね、そして撮れた写真がこれです。

(この写真撮りたかったよぉ~来てホント良かった~)

ところで、この寿福寺は亀谷山きこくさんという山号なんですが、この山号からわかる通り、この寿福寺一帯は亀谷かめがやつと呼ばれる所でした。

亀谷は頼朝の父である源義朝みなもとのよしともがかつて邸宅を構えた所であり、その義朝の菩提を弔うために岡崎義実おかざきよしざね一宇いちうの草堂を建て、さらに頼朝が治承じしょう4年(1180年)10月6日に鎌倉へ入った際、自身の御所を築こうとしていた所でもあります。

そして、この寿福寺の裏手にある山が河内源氏ゆかりの源氏山。
まさにこの場所こそ本格的に河内源氏と鎌倉の関りが始まった原点とも言える場所でした。

寿福寺自体の歴史は、正治しょうじ2年(1210年)うるう2月12日、ここに北条政子が寿福寺を建立することを決意し、もともとこの土地は土屋義清つちやよしきよ(岡崎義実の次男)が所有していましたが、それを召し上げ、翌13日に政子は栄西に寄進。寺の起工式も行いました(『吾妻鏡』)。

いつ落成したのかはわかりませんが、同じ年の7月6日には政子が京都で十六羅漢らかんの絵を描かせ、栄西の寺に送ったという記事があり、15日にその十六羅漢の絵の開眼供養が金剛寿福寺にて政子も参堂して行われたとあるので、この頃にはすでに何らかの御堂が建っていたことがうかがわれます。

そして、施主せしゅの政子はもちろん、栄西と親交があった源実朝さねともの参詣や増築・修繕を度々受けて、この両名に大変ゆかりのある寺となったことから、寿福寺裏の墓地には政子・実朝の墓とされる供養塔がやぐら(鎌倉特有の洞窟墓)内にあります。

まず、こちらが政子の墓(供養塔)。

そして、こちらが実朝の墓(供養塔)と言われています。

ただ、実朝の首以外の亡骸は同じ鎌倉にあった勝長寿院しょうちょうじゅいんの傍らに葬られたとあり(『吾妻鏡』 建保けんぽう7年(1219年)1月28日条)、政子のほうは御堂御所みどうごしょの地(大慈寺だいじじもしくは勝長寿院?)にて荼毘だびに付されたとある(『吾妻鏡あずまかがみ嘉禄かろく1年(1225年)7月12日条)ので、分骨とか遺髪などが納められているかもしれないですが、ここに眠っておられるのかは定かではありません。

あ、それと、この寿福寺の墓地には何名か著名な方が眠っておられまして、明治時代の政治家で外務大臣として有名な陸奥宗光むつむねみつさん、作家の大佛次郎おさらぎじろうさん、明治・大正・昭和の俳人、小説家である高浜虚子たかはまきょしさんなどがいらっしゃいます。


さ、こうして念願の寿福寺を訪れることができたわたくしめは、JR横須賀線と並行してさらに北上していきます。

その途中には太田道灌おおたどうかんさんの館跡である英勝寺えいしょうじ、『十六夜いざよい日記』で知られる阿仏尼あぶつに安嘉門院あんかもんいん四条)さんの供養塔などがあります。
(今回写真撮らずにスルーしちゃったけど・・・やっぱ撮っておけば良かったかも・・・)


そして、さらに進んでいくと、道幅もまた一段と狭くなっていき、この道あってるよね??と思ったあたりで、「化粧坂けわいざか(仮粧坂)・源氏山公園 左」の案内板が。

そこから緩やかな上り坂が始まります。
まだこのくらいなら全然。と余裕なご様子のわたくしめ。

その上り坂の途中にはこのような旧跡もあります。

こちらは景清窟かげきよくつ、景清土牢つちろうとも呼ばれるもので、半分崩落したのか無くなってしまっていますが、もとはやぐらだったそうです。

¬となっているのが、やぐらの右側面だったと思われます。

景清とは平景清たいらのかげきよ(伊藤景清、藤原景清とも)のことで、彼は平家の侍大将として知られる藤原忠清ただきよ(伊藤忠清)の子で、彼もまた治承じしょう寿永じゅえいの乱での数々の戦に従軍、壇ノ浦だんのうらでも戦いました。

しかし、彼は壇ノ浦で入水せず落ち延びて、兄・忠光ただみつとともに頼朝暗殺を図ったというのです。

兄の忠光は建久けんきゅう3年(1192年)1月21日に新造している御堂(永福寺ようふくじ)の建設現場を視察にきた頼朝を狙って、工夫の中に混じっていたんですが、怪しまれて捕らえられ、尋問した結果、頼朝暗殺を企てたことが発覚。2月24日六浦むつらの海辺(六浦海岸、横浜市金沢区)にて斬首されました。

一方、景清はその後も機会をうかがって潜伏しつづけ、建久けんきゅう6年(1195年)3月の頼朝二回目の上洛を好機と捉えて暗殺を実行に移そうとしましたが、事前に発覚して失敗。奈良もしくは京都で捕らえられて鎌倉に護送。和田義盛わだよしもりにお預け、次いで八田知家はったともいえにお預けになったんですが、やがて景清は自らすすんでこのやぐらに引き籠り、届けられた食事も一切取らずにやがて死に絶えたということだそうです。

まぁ、景清さんは平家方のレジェンド(実在はしてたとは思います)なので、とにかく後世の脚色が多く、このやぐらで最期をむかえたかどうか実際のところはどうだったかわかりません。

景清さんは能、幸若舞こうわかまい謡曲ようきょく浄瑠璃じょうるり、歌舞伎・・・と日本のほとんどの伝統芸能の題材になっているんじゃないかと思えるほど活躍されておりますので、当然脚色もハンパないことこの上なしです。
(でも、こうして名前が多くの人に知られている景清さん、あなたは幸せです。もののふは名こそ惜しめですからね^^)


さて、まだまだ上っていきますよ。

ん?さっきより上りがきつくなってないか。
ちょっと・・・あれ?化粧坂けわいざか(仮粧坂)ってこんなに傾斜あったっけ…と思い始めたわたくしめ。
でも、ここまできて引き返すなんて選択肢はもはやないのでした。

って、いうことで今回はここまでです。
次回は【扇ヶ谷エリア(中編)】です。最後に今回のルート。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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