「あ、」
懐かしい香りがした。
暗闇の中、窓際で煙草を吸う彼がこちらを振り返る。
「いい匂い」
そう言うと彼はふっと煙を吐きながら笑う。
「煙草吸わないのに珍しいね」
1Kの部屋に広がる煙の匂い。
この匂いを私は知っていた、愛していた。

雨音が部屋に響く。
生活できる最低限のもので作られているこの部屋とアプリで出会いお互いの事を何も知らない私達の関係はとても心地良かった。
友達と話すよりも知らない誰かと話す方が気が楽な夜だってある。
「この家凄くいいね、落ち着く」
「家賃二万の何もない家が?」
私が頷くと、確かにいいかもねと彼が呟いた。

私が煙草の匂いで断片的になっていたいつかの記憶を思い出すように、窓際で煙草を吸っている彼も誰かのことを思い出しているのだろうか、そんな事を考える。
考えるだけで深入りな事は何も聞かない。
何も知らなくていいのだ、今、この瞬間を、この夜を一緒に過ごしてくれればそれでいい。

「この部屋で1人で過ごして1人で死んでいく」
煙草を吸い終わり隣に戻ってきた彼を見る。
パソコンの灯りでぼんやり見える横顔は画面に流れる映画を見つめたままだった。
彼と私はどこか似ている。
私達は寂しさに溺れながら、人生に絶望しながら生きていた。この先もきっと。でも、
「それもいい人生だね」

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