見出し画像

日本仏教と迷信産業

今読んでいる本は「司馬遼太郎が考えたこと 11」です。
そのなかで、司馬史観かもしれませんが、現代日本人がほぼ習慣として行っている仏教行事について、解りやすく説明がされています。
お釈迦さん、解脱
阿弥陀如来、他力本願
仏教とお墓は関係ない。「空」。
霊魂というものは仏教にはない。
原始仏教は本来形而上学であるから仏像も何もない。
ヘレニズムの影響をうけてガンダーラに仏像が作られた。
仏教についてなんのイメージも素養もない日本人の前に、仏教はいきなり仏像の形で現われた。
日本の仏教とは、インドの解脱の大思想が入ってきて、その思想に圧倒されたということではなく、まず仏さん(仏像)でびっくりした(笑)。
随・唐の仏教は、国家仏教であった。
これがそのまま百済経由で日本に入ってきた。
密教は、原始仏教を起点にすれば後世にできた傍流のもの。
釈迦の教説とはあまり関係がない。
「空」「無」ゼロの発見。
ゼロにはすべてが入る。プラスもマイナスも。
しかしゼロから出てゼロに帰りますから、結局ゼロになる。
「絶対矛盾的自己同一」西田幾多郎
戒名は仏典には存在しない。日本だけの俗風というべきもので、
江戸中期、町人や百姓が力をもってきて、寺ではしきりにかれらにすすめた。
幕府は禁令を出し、百姓・町人のとくに由緒ある者以外、
院号、居士号、大姉号をつけてはいけないと禁じた。
儒教の始祖孔子は、死について語らなかった。
釈迦も死について語っていない。
要するにお骨というものに、極東古アジアの原始的な宗教の名残りを感じているのではないかと思いますが、どうでしょうか。
ひょっとすると、室町時代の高野聖がはじめた習俗かもしれません。
聖とは、いい名前がついていますが、乞食ということです。
諸国を歩き、お大師さんの御利益を打って回りました。
しかし、なんと言っても一番の営業品目は、
あなたのお父さんが死んだら、そのお骨を高野山に持って行ってあげますよ、というものでした。
  
抜粋の抜粋ですが、司馬史観でもって、日本人の仏教間が簡潔に纏められています。
人間というもの、余程の信念がなけらば、世間に流されてしまいます。
空気を読んでしまいます(笑)。
習慣も数年・数十年続いていただけで、過去の日本人はそのようにしていたと安易に感じてしまいます。
まぁとにかく般若心経に言う「空」「無」の意味をしっかり噛みしめて
さりげなく、あっけらかんと時間・空間を過ごし、
お迎えが来たら、単純に、みなさん「さようなら」といきたいものです(笑)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?