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福岡市の歴史

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福岡在住の光山忠良が連載する、福岡市の過去・現在・未来。
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2022年11月の記事一覧

田中吉政―ふたつの水都を結ぶ線

田中吉政―ふたつの水都を結ぶ線

西鉄天神大牟田線の福岡天神から柳川まで40分の距離を、「水都」という特別電車が走っている。文字通り柳川は有明海から引いた水路を巡らせた水の都だ。

柳川の大名といえばみな立花宗茂を連想する。実は福岡市東区にある立花山を根城とした大友系の立花氏の当主で、福岡市にもゆかりがあるのだが、島津の大軍を立花山で食い止め、秀吉と合流して九州征伐に貢献したことから秀吉の配下となり、朝鮮出兵でも活躍、柳川を与えら

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多々良浜ってどこ?「多々良浜の戦い」の古戦場跡を歩く

多々良浜ってどこ?「多々良浜の戦い」の古戦場跡を歩く

私の南北朝時代に関する知識は児童書の域さえ超えていない。太平記の原典どころか、小説も、ドラマも、見たことがない。
おぼろげに覚えているのは、隠岐から再起を誓う後醍醐天皇とその忠臣・楠木正成くらいである。いったいどんな史観の児童書を読んでいたのだろうか。
というわけで、今回は、ろくに知りもせず、調べもしないままに、とにかく「多々良浜の戦い」の古戦場跡(福岡市東区)に行ってきた、という話である。

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広田弘毅はやはり「悲劇の宰相」だった?

広田弘毅はやはり「悲劇の宰相」だった?

はじめに福岡藩が倒幕運動に出遅れたために明治政府から排除され、福岡の人々は「福岡の乱」を起こしたり、玄洋社など在野として活動せざるを得なくなったりした経緯は再三書いたが、ちょっと雑な解釈だったかなと思わないでもない。薩長土肥においても不平士族は数多く存在し、薩摩(西南戦争)、長州(萩の乱)、肥前(佐賀の乱)と反乱を起こした。土佐の不平分子たちは板垣退助をはじめとする自由民権運動へと政争の場を移して

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廃藩置県を待たずに取り潰された福岡藩の話

廃藩置県を待たずに取り潰された福岡藩の話

幕末の福岡藩の動きがわからないというご意見をnoterさんからいただきました。今日は福岡藩の幕末・明治の動きについての話。

先日の記事で福岡藩は最後まで佐幕を貫いたと書きましたが、語弊がありました。

福岡藩は実は土佐の中岡慎太郎や坂本龍馬に先駆けて長州斡旋を行い、長州にいた尊王攘夷派公家の三条実美ら五卿を大宰府に移転させるのに成功するなど、一時期尊王攘夷運動をリードしていたのです。ところが幕府

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記念誌がかなり面白い

記念誌がかなり面白い

私は庶務課でもなんでもないのですが、会社のかつて倉庫だった部屋で一人、ノートパソコンを広げて仕事をしている怪しげな男です。そんな事情があるため、部屋の中にはミシンがあったり、遺影があったり、大量の社内文書が保管されていたりと、摩訶不思議なものを今でも発見したりします。

約1年前のことだったでしょうか。そんな部屋の本棚の中から『天神の旗~都心界四十年の歩み~』(平成元年発行)という記念誌を発見した

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徳川家康の感謝状が偽物だった件

徳川家康の感謝状が偽物だった件

薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)が倒幕の主役を担ったのに対し、同じ西国雄藩だった福岡藩が目立った活躍ができなかった理由については、以前記事にもしました。月形洗蔵ら勤王の志士が一時的に活躍したものの、佐幕派だった藩主の黒田長溥による「乙丑の獄」により勤皇派は一掃され、明治維新に完全に乗り遅れるのです。

黒田家が子々孫々まで佐幕派、つまり徳川家に忠実だった理由として、「徳川家康の感状(感謝状)」が

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