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広田弘毅はやはり「悲劇の宰相」だった?

はじめに

福岡藩が倒幕運動に出遅れたために明治政府から排除され、福岡の人々は「福岡の乱」を起こしたり、玄洋社など在野として活動せざるを得なくなったりした経緯は再三書いたが、ちょっと雑な解釈だったかなと思わないでもない。薩長土肥においても不平士族は数多く存在し、薩摩(西南戦争)、長州(萩の乱)、肥前(佐賀の乱)と反乱を起こした。土佐の不平分子たちは板垣退助をはじめとする自由民権運動へと政争の場を移してゆく。
とはいえ、薩長土肥の藩閥内閣は伊藤博文(長州)から田中義一(長州)まで続き、戦後も岸信介(長州)、佐藤栄作(長州)から安倍晋三(長州)へと、連綿と続いている。吉田茂は大久保利通(薩摩)の息子の女婿だし、福岡県にも麻生太郎がいるじゃないかと指摘されるかもしれないが、麻生も大久保のひ孫であるし、筑豊の炭鉱王の一族ということで、筑前・福岡市民からの親近感は薄い、と思う。
その中で異彩を放ち、福岡市民からある程度の親しみを受けている政治家といえば、広田弘毅(1878‐1948)であろう。鍛治町(現在の天神)の石材店の平民の子として生まれ、貧しいながらも水鏡天満宮の扁額(本当は神社の前の石碑らしいが)の字を書くなど達筆少年として知られ、小柄ながらも柔道に精を出し、福岡市の名門・現在の修猷館高校を出て、一高(東京帝国大学)から外務省、そして内閣総理大臣へと立身出世を遂げるさまは、市民にも身近に感じるだろう。文官唯一のA級戦犯として絞首刑に処された事実があるが、城山三郎『落日燃ゆ』において広田が、軍部を止められず、天皇陛下のために黙秘を貫いた「無私の人」として描かれたことで、誹りをまぬかれている。
ところが、2008年に出版された服部龍二『広田弘毅「悲劇の宰相」の実像』を読むと、広田のイメージがだいぶ変わってくる。私の読書感想は以下のようなものである。
「日中提携および対ソ外交を期待され、本人も意欲的に取り組むが、軍部の横やりうんざりし、やがて意欲を失っていく過程が描かれる。中国大使館の設立の際も、部下から「対中対策すなわち陸軍対策ということをわかっていない」などと評されたり、対中問題を部下に任せきりで意図しない声明を表明されたりと、どうも政治力学もリアリズムも、マネジメント能力も欠けていたようだ。優柔不断で軍部に押し切られることもしばしばだったが、だからといって極刑に処されたのはやはり悲劇と私は思う。城山三郎の歴史小説の影響力も思い知らされた」

悲劇の宰相 その3つの理由

広田は軍部の「積極的な追従者」として処刑されるわけであるが、私は服部氏の主張におおむね首肯するけれども、やはり広田弘毅は「悲劇の宰相」だと思う。その理由は3つある。

1 玄洋社の社員だった

城山三郎の小説は事実と異なり、実際には広田は玄洋社の社員だった。
玄洋社は日本初の右翼団体だといわれている。そもそもは自由民権運動からスタートしたのであり、自由民権運動と国権主義とは矛盾しないとか、玄洋社のアジア主義を誤解しているとか、昭和期には力を失っており過大評価されすぎだと庇われることが多い。しかし玄洋社は早くから右翼活動を鮮明にしており、たとえば大隈重信に重傷を負わせたテロリスト・来島恒喜に爆弾を供与したのも玄洋社社長・頭山満である。頭山は自決した来島の葬儀で「天下の諤々は君が一撃に若かず」と堂々と礼賛している。ちなみに来島の墓石を造ったのは石屋である広田弘毅の父である。
広田が国際検察局に供述したとおり、当時の玄洋社は「青年教育のため」に存在したのに過ぎないかもしれない。しかし服部氏が指摘するように国際検察局は超国家主義団体としての玄洋社を重く見ていた。頭山満の葬儀委員長まで務めた広田に疑惑の目が及んだとしても不思議ではない。
なお、広田弘毅の妻も玄洋社の幹部の娘で、広田の逮捕直後自殺している。夫が玄洋社との関係性を疑われることに気を病んだのかもしれない。


福岡市舞鶴にある玄洋社跡(光山撮影)

2 人脈がなかった

外務省同期の吉田は吉田家の養子になることで「吉田財閥」とジョークを飛ばすほどの財力を手に入れ、何よりも大久保利通の三男・牧野伸顕の女婿であり、人脈も申し分なかった。
しかし広田は、なんと三菱財閥の娘との縁談を断り、糟糠の妻・静子で結婚している。人脈といえば頭山満ら玄洋社の人々がいるが、頭山は一切の公職につかない人物であり、蒋介石と懇意の頭山を内閣参議にしようとして内閣に反故にされたりと支持基盤とは程遠い存在であった。外務省では主流派の幣原喜十郎とも距離を置いていたし、部下の重光葵ともそりが合わなかった。同郷の親友で外務省の同志だった平田知夫を若くして失ったのも打撃だっただろう。

3 スケープゴートにされた

南京事件を閣議で提起していなかったことが広田の「犯罪的な過失」とされた。日暮吉延氏は次のように分析している。

松井石根や、文官で唯一死刑となった広田弘毅の場合、理由は日中戦争時の南京事件である。特に松井は侵略戦争関係では完全無罪であるのに、南京事件の中志那方面軍司令官だったという一点で死刑になった。どうにもバランスが悪いが、国際的衝撃を与えた南京事件の責任者が必要だったわけである。

日暮吉延「東京裁判における法と政治」(『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』)
p233

広田も松井石根とともにスケープゴートにされたのである。

おわりに

広田に批判的な服部龍二氏の『広田弘毅』であるが、彼の冷静な筆使いでも、やはり糟糠の妻・静子の死、裁判を雨の日も風の日も傍聴し、最後まで見届けた息子・娘たちの別れには、涙を誘う。広田がどんな政治家たったろうと、家族にとっては善き父であった。その意味では、どちらにせよ広田弘毅の死は「悲劇」だったといえるだろう。

参考文献

服部龍二『広田弘毅「悲劇の宰相」の実像』
日暮吉延「東京裁判における法と政治」(『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』)
西日本シティ銀行編『博多に強くなろう北九州に強くなろう(上)』
ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』
嵯峨隆『頭山満 アジア主義者の実像』

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