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私の生い立ち:幼少期の記憶 Part 1

はじめに

今回は、私の生い立ちや成長過程に焦点を当てたいと思います。これまでの人生で経験してきた様々な出来事や、それが私にどのような影響を与えたのかを振り返ることで、発達障害を抱える方々やその周囲の方々に少しでも理解と共感を深めていただければと思います。

私の物語は、幼少期から現在に至るまで、多くの挑戦や困難がありました。それらの経験が、私の性格や価値観を形作り、今の私の人格を形成しています。この投稿を通じて、発達障害を持つ方々やその家族、友人たちが、それぞれの状況をより良く理解し、適切にサポートできるようになることを願っています。

私の生い立ちについて少しずつ振り返ってみましょう。生い立ちを語るのは非常に長くなりますので、途中で私の思いを交えながらお話ししたいと思います。それでは、一緒に長い旅に出かけましょうか。


幼少期

家庭環境

私は母、父、兄、そして私の四人家族で育ちました。出身地域は治安のあまり良くない地域で、私たちは低所得の家庭として古い借家に住んでいました。父は早朝に出発し、昼に一度戻ってきてから再び出発し、夕方から夜にかけて戻ってくるという不規則な勤務形態でした。母はメニエール病などの持病を抱えており、専業主婦として家事をこなしていました。兄は学力やその他すべてにおいて私より優れており、家族からも一目置かれる存在でした。

初期の兆候

私は未熟児で生まれ、言葉を発するのが遅かったです。そのため、幼少期には発達の遅れが見られ、多動性があり、常に動いていないと落ち着かなかったため、ずっと歩き回っていました。また、「なぜこれをやらなければならないのか」「なぜしてはいけないのか」といった疑問を繰り返し、一般的にイタズラと言われる行為をよくしていました。表情も乏しかったため、周囲の反応は冷たく、「頭のおかしい子」「変な子」と言われることが多かったです。それが両親からの厳しい態度や批判に繋がりました。特に父は私に対して唐突に暴言を吐いたり、気に入らないことがあると暴力を振るうことがありました。母も疲れやストレスが溜まると暴言を吐くことがありました。このように、私は家庭内での暴力や虐待の対象となりました。

両親は私に対してネグレクトの傾向があり、幼稚園に行くために服装を着替えている際、父は「なんかおまえ幼稚園に行きたくなさそうだな?行かなくてもいいぞ、その代わり家から追い出してやる」と言いました。この言葉は幼少期の子供に対して異常であり、鮮明に覚えています。この時期、父の不倫が発覚し、家族が私が20歳になる頃に離散する予定であったことも知りました。

幼稚園では、自分の物が取り違えられた場合、それをうまく伝えることができず、泣いて感情でしか表現できませんでした。球技が苦手だったので、一人で遊具で遊ぶか、女の子と一緒に遊ぶことが多かったです。当時は男はこうあるべきである、女はこうあるべきであるという固定観念が非常に強い時代でした。そのため、私が女の子と遊ぶことも変な目で見られていました。誰にでも話しかけたり、固定観念(男の子が女の子と遊ぶのはださい、みたいな)にとらわれなかったのも、そのころからだったのでしょう。これは発達障害の特徴の一つだったりもしますね。

私は人間よりも動物が好きで、捨て猫や野良猫とよく遊んでいました。また、一人で絵を描くのも好きで、その時間はつらい現実から遠くにいるような気がしました。
この頃から一人で自分の世界に入ることが好きで、心の中で別の自分と対話するようになりました。



「また泣いてるんだ」




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