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【読書】 風の中のマリア 百田尚樹 ー生きる目的ー

戦って生き抜くのよ!

 30日の命を燃やすオオスズメバチのワーカー(働き蜂)の世界を描く作品『風の中のマリア』。巣を構成するのは、全員がメスという女性社会。人間とおなじように、社会性を持ちながらも、個々の役割が決まっている彼女たちの一生を追う、独特な作品です。

 メスで、生殖機能を持ちながら、子供を生むことができないワーカーのマリアたちが「私たちはなんのために生まれてきたのか」という生の理由を探し求めて行く姿に、「人間の生きる意味とは何なのか」と考えさせれました。

 子供を埋めるけど生まない選択をする人々、生みたくても生むことができない人々、女性だけが持つ「子供を埋める」という特権。男性の役割。種の存続と個の生、といういくつものテーマから、感想を記しておきたいと思います。

あらすじ

 晩夏。巨大な規模と勢力を誇る、オオスズメバチの帝国に、働き蜂(ワーカー)のマリアは生まれる。
 彼女は、疾風のマリアと呼ばれ、狩の名手へと成長していく。ワーカーの寿命は30日。一日ごとに、姉たちは死んでいき、新たに妹たちが孵化する。
 彼女の仕事は、妹たちのために昆虫を捉えて、食べさせることだった。
 狩りをしていく上で、彼女は他の昆虫たちが「交尾して、子孫を残すためだけに生きている」ことを聞かされる。彼女は、自分もメスなのに、子供を生めないことに、次第に疑問を抱いていく。
 ある日の狩りで、彼女は初めて、オスのオオスズメバチと出会う。彼には、針がなかった。その上、女王から生まれたのではなく、彼女と同じワーカーから生まれたことを聞き、彼女は驚愕する。
 オオスズメバチの巣では、女王が死んだり、産卵ができなくなると、代わりにワーカーが産卵をするようになるのだという。そして彼は、他の巣で新たな女王バチが生まれる前に生まれてしまったために、後は一人死んでいくのを待つのみであった。
 彼に同情を示す彼女の心に、芽生えるはずのない感情が湧き起こる。
 秋が深まると、獲物は急速に少なくなり、彼女は最年長になろうとしていた。単独での狩りから、集団で他の蜂たちの巣を襲うことで、多大な犠牲を払いながらも、狩りを続ける彼女たち。巣は、新女王を巣立たせようと新たな局面を迎えていた。
 それは同時に、今の帝国の終わりを告げていた。産卵できなくなった女王を殺し、戯女王が誕生する。
 遂に迎えた新女王の巣立ちの日、交尾を目的に飛来する他の巣のオスたちと、必死の戦闘で選別する彼女は、自分の生の意味を見いだす。
 帝国のために生きること。過去から脈々と受け継がれてきた、自分の遺伝子を持つ家族たちが、新たに継承していく未来を守ること。一頭一頭はばらばらに見えるが、実は全部合わさって一頭なのだということを、実感しながら、彼女はその生涯を閉じるのであった。

子どもを産むということ

「時々、自分の一生を考える時がある。自分たちワーカーは何のために生まれてきたのだろうってー」「子供も産めずに、戦いの中に一生を送って、最後は誰も知らないところで死んでいくのよ」

 同じメスなのに、働き蜂には子どもが産めない。他の昆虫は「交尾をして子孫を残すため」だけに生きていることを知るマリア。この虫たちのやり取りを見たとき、個体が子どもを産まないという選択肢を持つ生物は、社会性を持つ動物に限られるのではないかと感じました。

 (生物から見て)中でも異常なのは人間。「子供を持たない」選択をする人が多く存在するからです。そう言う、私自身も、子どもが欲しいのかと問われれば困ってしまいます。どうやら、私たちには子孫を残す目的は以外に、生きる目的を持っているらしい。

 彼女の目的は「狩りをして、妹たちに食料を運ぶ」一点です。彼女はそれが「ゲノム」の意志によるものだと感じて困惑します。自分は予めプログラムされたようにしか生きることができないのか。愛情だと思っていたものの、機械的な冷たさに驚くのです。ちょうど、私たちが感じる、道徳的な観念を、生物的な直感が凌駕してしまったときの、驚きと絶望のように。

他人のために生きる

他人のために生きる虫なんてどこにもいないんだ。そんな虫は、あんたたちヴェスパ(オオスズメバチ)と、ミツバチと、あとはアリくらいなもんだ。

 みんながみんな自分のために生きている。でも、どこまでを自分とするのかが私には気になった。たとえば、自分の家族だけが大切だという人もいれば、そこに、友人や恋人も入れる人もいるだろう。または、家族がいても自分一人だけが大切な人もいれば、キリスト教などでは、隣人愛を掲げ、全ての人のために生きるという人もいる。

 本当の意味で「他人のために生きる」人などいるのだろうか。線路に落ちた人や、事故にあいそうな人に、自らの命をかけて救出する人がいる。一歩間違えれば自分が死ぬところにもかかわらず。「体が動いていた」と証言する彼らは、他人のために瞬間的には、他人のために生きたのかもしれない。道端で泣いている子どもを見れば声をかけるい人がいて、電車で他人に席を譲る人がいて、はたして、それは他人のためなのだろうか。習慣づけされた道徳を「他人のため」という言葉で飾っているようにしか思えてしまう。

生の目的

「あたしたちアリも、あんたたちスズメバチも、巣全体で一つの生き物なんだよ」「女王バチは卵巣で、ワーカーは手足だ。一頭一頭はばらばらに見えるが、実は全部合わさって一頭なんだ」

 ユーカリの木の話を思い出した。土地一帯に生えるユーカリの木を、コアラが食べ過ぎてしまい、極端に葉が減少してしまうと、同時に複数のユーカリの木が毒素を放つのだという。

 全体の一部になって生きていくこと。人に置き換えれば、社会の歯車の一部になってと言ったところだろうか。ここで感じたのは、女王バチもまた、スズメバチという、生命のシステムの一つに過ぎないのだということ。分からなかったのは、人間も人間という一つの生命のシステムに従って生きているだろうかということ。

 小さなところで言えば、人は鏡という言葉。優しくしてもらったら優しくしたくなるし、傷つけられれば傷つけ返す、返報性の法則。社会で生きて、絶え間なく社会を発展させようとするのが、人間のもつ生命システムなのだと感じる、それは、蜂、自分たちの帝国を巨大なものにし続けるように。

まとめ

 帝国のスズメバチの働き蜂という、もはや一人で集団から外れて生きていくことができない彼女の置かれた環境は、どこか、人間の社会での生活にも通ずるような感覚を覚えて、夢中になって読みました。

 蜂は蜂の社会の中でしか生きていけない。でも、そのことに対して、何か不平不満があり、幸福があり、葛藤があるかなんて、彼女たちではいない私たちには想像のしようもない。それが、物語のなかではっきりと目に浮かんでくる所に、創作の魅力を感じます。

 特に、作中に出てくる、主人公マリアをとりまく蜂たちが「私たちはなんのために生きているの」と、自らの生き方に葛藤しながら、模索していく姿に、同じく社会を作ってその中で生きている私たち人間と、重なる部分が見られました。

 似ている部分もあるからこそ、余計に私たちとの相違点が気になるのでしょう。人口ピラミッドは、先進国と発展途上国では違いが一目瞭然です。人間も多分に漏れず動物なんだと実感させられるところが多くあります。「他人のために生きる」ことの意味も、本当は極めて利己的な理由なのではないかと疑ってしまいます。

 マリアは最後まで、ワーカーとして、その生涯を終えます。彼女の心の葛藤と30日間の一生は、100年を生きることができるようになった私たちにも、あてはまることなのかもしれません。

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