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五月病と新しい無限に広い夏

 何も共有しない日常が当たり前になってきた。朝起きる、歯を磨く、仕事に向かう、食事をとる。能動的に向き合おうとしなければ、生きるためのあらゆる事柄が、陳腐で無価値なものに思えてくるような、ぬるりとした虚無感が、すぐそばにあることを感じる。

 谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』を手に取る。終盤の「ネロ」という詩が目に留まった。たった2回の夏を経験し、死んでいったネロという子犬へ、彼を愛した少年が、もうじき季節が巡ってくるのだ、と呼びかける。

ネロ/もうじき又夏がやってくる/しかしそれはお前のいた夏ではない/また別の夏/全く別の夏なのだ

 能動的に世界を感じ、問いを立て、自らそれを解いていくこと。喪われたものたちを弔い、祈ること。生きていくことは、どのような形であれ、刻々と新しさを刻んでいく行為だ。その価値を正確に、厳密に測ることは誰にもできない。誰にも脅かされてはならない。己の生命の主体として、責任と誇りをもって、新しい季節に体を馴染ませるという小さな誓いが、平凡な日常を鮮明に塗り替える。「ネロ」は、そんなエネルギーを貰える詩であった。

新しい夏がやってくる/そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく/美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと/そして僕は質問する/いったい何だろう/いったい何故だろう/いったいどうするべきなのだろうと​

 重みのある湿った空気。息苦しいマスクの内側。紫陽花の淡い青。細胞が死んでまた生まれる痛み。小さな変化に耳を澄まして、自分と世界のあわいをすくい上げる瞬間が、良きにつけ悪しきにつけ、日常の隙間を満たしていく。一筋縄ではいかない世界ではあるけれども、ともかくも、新しい季節の到来を寿ぎたいと思う。


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雨の日をたのしく

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