「撮影所に、レース編が野火のように流行しました」
前回の記事『昭和33年。ラジオでレース編み』の中で、昭和30年代のレース編みのテキストをお目にかけました。
この時代はまちがいなく、日本でいちばんレース編み(というか編物全般)が盛んだった時代です。
どれくらい盛んだったか、ということがわかるお話を一つご紹介しましょう。
下の写真の中でレース編みをしている、すばらしく綺麗な女優さん。名前をわかる方は、かなりの映画通といえるでしょう。
芸名を「叶順子」さんといって、まさに昭和30年代に活躍された女優さんです。「京マチ子、山本富士子、若尾文子の三大女優に次ぐスター女優」(ウィキペディアによる)として人気があったのですが、惜しいことに健康上の理由で、まだ二十代のうちに引退されました。だから現在の知名度は低いですが、今でも熱心なファンがおられるようです。
上の写真は、『主婦の友』昭和35年5月号の付録だった『流行のレース手芸』という小冊子の中にありました。手芸の情報がぎっしり詰めこまれた中に「レースを楽しむ」と題する囲み記事が四つあり、当時著名だった四人の女性がレース編みについて語っています。その一つが『撮影待ちを利用して』という叶順子さんの記事です。
ここでさらっと触れられている『鍵』という映画。谷崎潤一郎の同名小説を映画化したものですが、調べてみるとこれがまあ、かなり大変な映画なのです。
二組の男女の愛欲が絡み合う、異常な人間関係。エロチックで陰惨なストーリー。成人映画に指定され「その性表現を巡って原作が国会でやり玉に挙げられる等、社会的な騒動となった(ウィキペディアによる)」といいます。映画は大ヒットし、カンヌ映画祭などでいろいろ賞も受けたのですが、審査員の中には「汚物」と酷評した人もいたとか。
叶さんは、主演の京マチ子の娘役を演じられました。しかしお話がお話なので、精神的な負担は相当なものだったと想像されます。
このとき、撮影の合間に叶さんが編んでいたという作品がこちら。
「手編みのお弁当袋」! 映画の中のドロドロとは対照的に、慎ましくてかわいくて堅実そのもののアイテムです。異常な人間関係に没入しなくてはならないとき、人間は本能的に、その対極にあるものを求めるのでしょうか。
成人映画に出演する女優二人がそろって編物をしている図は、なんだか痛々しいような、でも少しほほえましいような感じがします。「心から楽しんで、自分のペースでやっておられて “いいな” と思いました」という言葉からは、それぞれの聡明さが透けて見えるようです。
叶さんは『鍵』を撮る半年間にできた作品を共演者たちにプレゼントしますが、
そうなんですよね。レース編みって、実用面ではちょっと弱いんです。でもだからこそ大切に保管されて「あのときこんな濃密な時間を過ごした」という、人生の記念品みたいなものになるのだと思います。
大柄で明朗だったという叶さんは、ご本人も認めるとおり、本来なら針仕事など「ぜんぜんキライ」なタイプの人です。そういう人すら巻きこむほど、当時の「レース編みブーム」は熱かったということになります。主婦は家でラジオを聞きながら、女優は撮影所で、それぞれいっしょうけんめい針を動かしていたんですね。
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