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昭和30年。「洋装30年を語る」その➀

 こんにちは。手芸の本を眺めるのが大好きな owarimao です。
 下の写真は、昭和30年3月に出た雑誌『婦人生活』の付録です。

モデル:若尾文子

 「付録」といってもペラペラではなく、全部で131点もの編物作品が載っていて、超充実の内容です。ほとんどがウェア物で、婦人・メンズ・乳幼児・子ども・ジュニアと全年代をカバー。手のこんだ模様編みや、刺繍、アップリケ、タティングレースなどいろいろな装飾が施されています。珍しいところでは「コッポ編みのセーター」「フィレーレースのヴェスト」なんていうものも。
 作品の編み方だけではありません。「棒針編みの基礎(1)〜(12)」「上手な糸のつなぎ方」「春向き模様編のいろいろ」「セーターの新しい着こなし方」「春の海外だより」など、編物にまつわるあらゆる情報が、ぎっしり詰め込まれているのです。
 その中にあって特に異彩を放っているのが、これからご紹介する「洋装30年を語る」という記事です。

 編物一色の付録なのに、なぜかここだけは洋裁の話題が中心。「日本洋裁界の草分けでいらっしゃるお三人の先生方」のすごく興味深い鼎談が載っています。5ページにわたる長い記事で、資料的価値が高いと思えますので、これから数日に分けて note でご紹介してみます。 
 鼎談の参加者は「杉野先生」「田中先生」「山脇先生」とだけあって、肩書も何も記載がありません。わざわざ書くまでもないほど、読者にとっておなじみの存在だったのでしょう。フルネームを記しておくと、

 ★杉野芳子(1892〜1978)
 ★田中千代(1906〜1999)
 ★山脇敏子(1887〜1960)

いずれ劣らぬ凄い方々です。日本の洋装の歴史そのもののような。それぞれの生涯が面白いです。

 それでは鼎談「洋装30年を語る」を見ていきましょう。

記者 本日は日本洋裁界の草分けでいらつしやるお三人の先生方にお集まり頂き、いろいろ思い出話やら御苦心談などお話頂きたいと存じます。

杉野 私、仕事を始めたのは丁度三十年前の昭和元年(大正十五年)です。今年が三十周年です。山脇先生は、その時お店をお持ちでしたね。

山脇 店も学校も両方ありました。大正十三年、今の放送会館の隣りの太平ビルで学校を始めたんです。

記者 洋装の始まりと申しますか、一番最初はやはり南蛮渡来の頃でしようか。

山脇 最初は大使公使等外交官の奥さんがお召しになつたんですね。

杉野 鹿鳴館時代随分流行つたんでしよう。

田中 私の主人の祖母などがよく着てました。

山脇 鹿鳴館は五六十年前でしようね。伊藤公(注:伊藤博文)が下田歌子さんなどと御一緒に皇后陛下の服を制定なさる時、英国式をお採りになり、女官さんや華族さんなども着て、ダンスなども随分流行つたんですよ。その頃私の父が病院長をしていまして、院長会議の帰りに洋服を買つてきてくれました。絹縮みの堅絞り、井桁の絣模様で水色のフリルがついていました。

杉野 洋装が日本で一番採り入れられたのはやはりショートスカート時代でしよう。第一次欧州戦争時代にアツパツパという言葉が出来ましたが、あれからですね。

山脇 私がフランスから丁度震災の年(注:大正12年)に帰ってきたら、皆さん震災でひどい目に合つたので洋服でなければ駄目だということで「山脇先生教えて下さい」と押しかけて来たんです。

杉野 私もそうです。震災が動機で自分もすつかり洋服になり、又教えようという気持になつたのです。

田中 震災当時、女学校の制服が出来たんでしよう。

杉野 そうですね。制服と子供服が一般の洋裁の始まりですね。私が初めて学校で教え始めた頃は生徒は誰も洋服を着ていない。子供服ばかり作つていて婦人服は講義ばかりなんです。とうとうこれではつまらないので「自分の洋服を作らなければいけない」と申したわけなんです。

山脇 震災を経て、日本の着物がいかに不便であるか、早晩、洋服にしなければならんという気持になつた。ですから大きな天災に遇うたびに婦人服というものに関心を持つたわけですね。

記者 先生方のお若い頃の御趣味とか、どんな洋服を着ていらしたかお伺いしたいのですけれど。

杉野 初めは既製服でした。アメリカではもうその頃、待つている間に直してくれるのです。ところがなかなか具合が悪くてよく合わない。それでだんだんと自分で直したり作るようになつたわけです。

山脇 趣味というより、只教えてもらつたとおりにしただけです。私など何にも知らずフランスに行き、急にものすごく上流の方の中に入りましたから、全然レベルの違う服装をしたわけです。主にドレッシイなものでした。帰つてきても、その通りのものを拵えた。或時奥山という参事官の奥さんが、私の食事している姿を見て「あんな着物は大公使の奥さんでなくちや着るものじやない」と仰言つたというんです。

田中 私は母が向う(注:フランス)に居りましたでしよう。送ってきたのを着ておりましたから、今から考えますとちぐはぐな服装をしていたろうと思います。何か赤いようなものばかり着ていたようです。靴なんかもこんな深い靴で、帽子に大きなリボンを附けたりして。

杉野 靴のことですが私が初めて洋服を着せられた時に深い編み上げの靴が流行つていました。今で言えばスケートの靴ね。ニューヨークは一寸雨が降ると凍るでしよう。ガラスの上に氷が張つたようなところを歩くので何べん転んだかわからない。そうすると私小さいでしよう。すぐ起こしに来てくれるのです(笑声)起こされない内に早く起きようと思つてずい分苦労しました。

記者 次に先生方、洋裁をなさろうと御決心になつた動機についてお話し下さい。

(つづく)


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