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「洋装30年を語る」その②「船底のミシンを借り…」

 昭和30年3月の雑誌付録『春の毛糸レース糸編物全集』から、『洋装30年を語る』という座談会の記事をご紹介しています。
 参加者の凄い顔ぶれをもう一度おさらいしましょう。 

★杉野芳子(1892〜1978)

1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。(…)
自身でデザインを行うファッションデザイナーでもあった。

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1926年(大正15年)〜
読売新聞家庭面に毎週杉野芳子の洋裁記事が34回にわたり連載される。「型紙」付き記事は洋裁の普及に貢献した。

杉野服飾大学・杉野服飾大学短期大学部 同窓会 すぎの会HP


★田中千代(1906〜1999)

昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。民族衣装の研究・収集家でもあった。

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日本で初めて、プロモデルでのファッションショーを開催。カネボウからの要請により、Christian Dior のオートクチュールの型紙の買い付け(日本人初のバイヤー)、購入した型紙をカネボウの布地で製作した「ディオール・ショー」を開催。
また皇后様(香淳皇后)の衣装デザインを長年担当。 

渋谷ファッション&アート専門学校HP

★山脇敏子(1887〜1960)

 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。(…)雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。

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1928年。この年、現オーナー・平山寛子の曾祖母である山脇敏子は東京・麹町に山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学院)を、銀座にはオートクチュールを手がける洋裁店「アザレ」を構えました。数度の滞欧中に習得した洋裁技術、そこに官費留学生に選ばれた日本画家でもあった敏子の感性を加えて提供される欧州のモードは、東洋一の大都会となっていた東京の婦女子の間で確かな評判を確立します。

athalie HP

 最年長の山脇敏子氏が明治20年生まれなので、昭和30年には68歳。最年少の田中千代氏は49歳です。
 (ちなみに、NHKの連ドラ『カーネーション』のモデルになった小篠綾子さん(コシノ三姉妹の母)は1913(大正2)年生まれ。山脇氏・杉野氏の娘世代にあたります)
 前置きが長くなりましたが、座談会の続きを見てみましょう。

記者 次に先生方、洋裁をなさろうと御決心になつた動機についてお話し下さい。

杉野 私などアメリカでは既製品ばかりでしたから全然合わない、しょつちゆう直してなくてはなりません。その頃イヴニングポストという夕刊新聞の土曜日に簡単に素人でも出来る型紙がついていたんです。それを買って作り始めたのが最初です。

杉野芳子氏 大正から昭和にかけて、自分でも新聞に型紙つきの記事を連載していた

記者 アメリカはもうその頃皆既製品ですか。

杉野 えゝもう家庭で作ろうという人など全然ありません。だから私が一人で作ろうとすると皆不思議がつていました。けれど若さの根気で結構何とか作つて行けました。それからだんだん面白くなつて……。

山脇 私は全然反対ですよ。洋裁をする動機は生きんが為にやつたことです。私がフランスに初めて行つたのは婦人の副業の視察というので、当時の農商務省の留学生で行つたのですから洋裁をしようなどとは夢にも思わなかつた。そして遊び半分に洋裁や手芸を習つて帰つて来ました。内地へ帰つてから家庭的にいろいろのことがあつて主人と別れたりして今度は本気で、もう一回行つて婦人服を習つて一生の仕事としよう、これで子供を育てて行かねばならないと思つたわけです。
 帰つて来るとどうも解らない処が出て来てとうとう三回行きましたよ。

田中 私が洋裁を始めた動機は、最初の外遊の帰途、あちらで求めた生地で、船底のミシンを借り、上陸した時の晴着を仕立てていたのを、現在の鐘紡社長のお母様が御覧になり、心に留めて下さつたのが初まりです。その後鐘紡サービスステーションにお勤めの傍ら自宅でも近所のお友達やお嬢さん達と食堂の卓を囲んで裁ち縫いを始めたのがだんだん人数がふえて学校に発展したわけです。再来年がもう二十周年になります。

田中千代氏 この頃すでに服飾事典の編纂を行っていた

記者 よく勇敢にあちらにおいでになりましたね。

杉野 性格でしようね。私など小さい時から行きたい行きたいと思つてました。同じ学校を出たお友達が行つてましたし、その頃はアメリカで日本人を非常に歓迎して割合簡単に行かれたんです。

記者 留学中の苦心談といゝますか辛かつたことなどございませんか。

山脇 私は特別つらい思いはしないんです。たゞ言葉に困りました。京都で二年間ばかりフランス語をやつてから、アテネフランセに二タ月通つて行つたんです。ところが全然駄目なんです。宿で自分の好きなものも食べられない。あの人の食べているものが美味しそうだと思つてもそれが言えない。それから、あの頃デザインをコッピーしても怒られるくらいひどい時ですから。私が行つたのはマドレーヌという学校でしたが、毎日々々スタイルを写させる。三月写しました。それから針拾い、一年かゝつても何もやらしてくれません。そうこうしている内に山田さんという方が日本びいきのリボンヌという人を紹介してくれました。それから毎日そこへ通つて、家へ帰つてから平面裁断に当てはめて見る。それが私の勉強でした。今でしたらどこでも習えるそうですが。

杉野 私が行つた時も見せてくれない。二度目にアメリカを廻ってフランスへ初めて行つたんです。学校を初めてから十二年目、昭和十二年にまずアメリカで少し馴らさなければいけないと思つてニューヨークで何ヶ月か学校へ行き、それからクインメリー号でパリへ行つたんです。やはり速成のフランス語では役に立たず途中ずい分悲喜劇がありました。ホテルへ行つても言葉がわからないので詰らないことにまで神経を使い、夜も眠れず神経衰弱のようになつてしまいました。そのうち、楢橋さんのお計らいで日本の方でフランス人を奥さんにしている家庭へ下宿させて頂き、そこで救われてやつと勉強することが出来たんです。

田中 でも何とか勘で解るものですね。

杉野 そうなると実に勘が働いて先生が何を仰言つているかということが大体解るもんですね。

田中 私なんかも弟がノートを見せてごらんというので見せると1/5でちゃんと書いてあると言つてびつくりしているんです。「どうして解るのか」と感心してるんです。あちらではめちやくちやに詰込主義で、先生が黒板に描いている間、全然ノートをとつてはいけないんです。一ぱい描いてからパツと消してしまうんです。そして今の通りお描きなさいという。描けなければいつまでも帰れない。

山脇 どこからどこまで覚えてきなさいと云つてそこまで暗誦できないとそれから先を絶対に教えてくれない。実に厳格ですね。この人は気の毒だから負けてやろうということは絶対ありませんね。

記者 それでは洋裁を始められた頃の思い出話をお願いしたいのですが。

(つづく)


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