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学校に行けない、行かない理由は、自分でもわからない。

わたしにとって、学校生活はかなり大変な冒険でした。

例えば、歴史を学ぶこと。

縄文時代から弥生時代、、、と
もう、ずっと「争い」の物語を
聞かされているようで、

学べば学ぶほど、
人間に対する不信感が増すばかりで、
ほんとうに、怖くてしかたがなかったです。

「人は怖くて野蛮な存在だから、気をつけましょう」って
言いたいの?

「情熱をもって生きることは、危険なことですよ」って
注意しているの?

「これからの未来も、ずっと争いが続きますよ」って
伝えたいの?

と、ただただ、戸惑うばかりでした。

これまで、この国や世界中で
過去にどんなことがあったのかを知ることも
しんどかったけれど、

それ以上に、

今、これらを教えてくる「人」の意図への不信感、
ナチュラルに受け入れている「人」への違和感、

戸惑っているのは自分だけだという
「わたしって、おかしいのかも、、」という疑い、

そうしたものに押しつぶされそうになって、
わたしの人生の「今」と「未来」が
真っ黒に塗りつぶされるような気もちになりました。

ふつうに、日常を豊かに暮らしている人たちもいたはずだし、
文化、芸能や伝統や風習は学ばないし、

文学は「国語」で、
音楽は「音楽」の時間に学んでいたとは到底思えず、

とりあえず、歴史の授業は、
「殺人事件」ばかり特集している
ニュース番組を延々聞いているような気分だったので、

頭の中、ぐるんぐるんして、
血の気が引いて倒れそうになるのを
なんとか、机にしがみついているような
嵐の中の、命がけの大冒険のような時間でした。

わたしは、不登校を選ばなかったけれど、
どんどん人への不信感は大きく強くなっていたので、

学校に行くことで「失っているもの」はあるし、
不登校だから「守られているもの」もあるのだと、
実感しています。

小学生、中学生の時は
こんなにはっきりとは自覚もなかったし、
人に説明なんてできなかったから、
「なんで、学校に行きたくないのか、行けないのかわからない」
のは、自然なことだと思っています。

わたしみたいな、
こんな理由で「辛い、苦しい」と説明しても、
「考えすぎ」「考えなくていい」でおしまいでしょう。


学校に行かない、行けない理由を聞かれること、
何度も質問されることがあれば、
それは「わかってるんでしょう?」という
意図があるのだろうと感じるので

説明できないことで、
プレッシャーに感じてしまいます。

嘘をつけば、
余計にしんどくなるし、

自分のことでも
わからないことはたくさんあるのだから、

身近な大人に「わからない、知らない」自分のことを
認め受け入れられたり、

「わからない、知らない」戸惑いを汲んでもらえると、
それは、大きな安心感につながるものと感じています。



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