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「夢を叶えるっていうことは、諦めるものを増やしていくことかもしれない」の話

 老人とほとんど同時にチーズに手を出して、私はあわてて手を引っ込める。
「あっ、すみません」
「いやいや、気にしないで好きに手を出して」
 老人はチーズを口に入れてから、片手で私にチーズを取るように促した。私は遠慮なく薄く切られたチーズをつまんで口に入れる。ミルクの濃厚な味を感じる気がするけど、私は味覚が敏感なほうじゃないので気のせいかもしれない。

「年を取って振り返ってみると、愛することがたくさん増えた。でも同時に、諦めたこともたくさんある」
 老人はデンマークの首都コペンハーゲンに住むアートコレクターで、部屋には小さなアート作品がたくさん飾られている。
「叶った夢はありますか?」
「叶ったものもあるし、今、叶えようとしてるものもあるよ」
「そうかぁ、いくつになっても、夢があるって素敵なことだなって思います」
 私は夢を救済みたいに感じている。人生という航海の中で、夢は自分が進む方向を指し示してくれるみたいだ。夢を失った時と比べると、追いたいと思う夢がある今では、人生に支えがあるような感じがするのだ。
 夢は、自分を救ってくれる自分のための宗教みたいだ。

「そうだね。そうかもしれない。でも、夢があるっていうことは同時に、すごくたくさんのことを諦めるってことでもあるんじゃないかって思ってるよ」
「そうですか? どうして?」
 老人は壁に飾られている一枚の絵を指さした。色鉛筆で描かれたイチゴのショートケーキの絵だ。
「彼女は古くからの友人でね。昔から、夢はないって自分で言ってたんだよ。夢を追うよりも、毎日楽しいことをしたいっていうのが、彼女の生き方だった」
「へええ、絵を描いてるのも楽しいから?」
「そう。決してうまくはないだろう。その時描きたくて描いた、それだけだ。彼女はその時々で、習い事をしたり旅行に行ったり、いろんなことに夢中になっていたよ」
「なるほど、人生を楽しんでる感じもいいですよね」
 彼女がやりたいと思ってやり始めたことは、彼女の夢というわけではなかったのだろうか。私はふと思った。夢と自分が楽しくてやっていることとの違いはどこにあるんだろう。
「彼女は自分の楽しみを諦めたくないんだって言ってたよ。やりたいと思ったことは全部やりたいって。やりたいことをやるのに時間が必要だから、夢はなくていいっていうのが彼女の考えだったね」
「そうなんですね。うーん、夢とやりたいことって何が違うんだろう」

 老人はチーズをつまんで口に入れ、飲み込んでからまた新しいチーズを手に取った。時間のあっていない時計が時を刻む音が、室内に静かに響いている。
「毎日を楽しむっていうのが、彼女の夢だっていうこともできるけど、夢っていうのは言ってしまえば、まだ叶っていないもののことかもしれないね。叶ってしまったらそれは現実だ、もう夢じゃない」
「ああ、そうか、確かに。夢はこれから叶えたいこと。彼女がやっているのは、今の暮らしを楽しむことですね」
「そう」

 私は薄く切られたチーズを指先で丸め、はしっこをかじる。毎日を楽しく暮らすこと、夢を叶えるのに時間を使うこと。どっちがいいかは本人次第だ。
「夢を叶える過程が楽しければ、結局は彼女と同じだよ。それでも友達と遊びに行く時間やお金、恋人と過ごす時間、おいしいものを食べたり、ゆっくり本を読みふけるような時間は、彼女より少ないかもしれない」
「そうですね。夢が大きければ大きいほど、なにに時間やお金を使うのか、選ばないといけないかもしれない」
「彼女のような毎日の楽しさが、うらやましく見えてしまうこともあるんだよね」
「ははは、分かります」
 私たちはお互い、手にしたチーズを口に入れて味わう。

「夢を叶えるというのは、日常の中で諦めることを増やすということかもしれない。諦めることが増えれば増えるほど、夢に使う時間は多くなる」
「そうですね。なんかそれはちょっと、寂しい気もしますが。日々の幸せと夢と、同時に全部叶ったらいいのに」
「夢の上に、全部が重ねられたら、きっとそれも叶うよ。君は夢を叶えながら、こうして旅もしてるわけだからね」
「ああ、そっか」
 私がチーズを飲み込みながらうなずくと、老人はつづけて言う。

「夢を叶えるということは、自分がやっていることで諦めても構わないことを仕分けることかもしれないね」

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