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「心が忙しくて落ち着かなくなったら何もしないことから始めるといいわ」の話

「ちゃんとしたい気持ちはあるの。ごはんを食べて、部屋を掃除して、髪の毛もきれいにして。でも、あれもしなきゃ、これもしなきゃって思ってる間にどんどん時間が過ぎちゃって。毎日毎日、夜になるたびに自分に失望するの。私ってこんなに何もできないんだって」
 クロエはもう、一年くらい自分の部屋に閉じこもったままだと聞いた。私は彼女の血の繋がらない母親に誘われて、北フランスにある彼女の家に遊びに来ている。日本から持ってきた和紙にクロエが興味を示したので、私たちは一緒に、羽の動く折り鶴を折り始めたのだ。
 自分で作った鶴が羽を動かして飛んだ時、私はクロエの表情が戻ってきたような気がした。部屋を出てトイレに向かう時のクロエは、こちらを向いても表情がよく読みとれないくらいだったから。

「がんばらなくていいのよって、休むのも大事だからって言ってるんだけどね」
 彼女の母親であるマリーは、クロエの言葉を通訳しながら私に言い添えた。
「やらないといけないことがいっぱいあって、焦っちゃう時ってありますよね。私もよくあります。自分で決めたことなのに、あれもこれもやらないと、やっぱりこれはやめてあっちにしたいとか。ドタバタ考えすぎて結局何もできずに夜になっちゃって」
 もともと気がそぞろな私は、料理の途中でメールに返信し始めてしまうほど、一つのことに集中しきれない。分断された時間をなんとかかき集めて一つのことを終わらせようとするけど、心の中がいつもせわしなくあちこちを走り回っている。心に急かされて焦りが増すばかりで、簡単な作業すら完了させられない。
「クロエも同じだって。クロエもあなたも、心が忙しくなりすぎた時は、ただ一つ、何もしないってことから始めるといいわ」
 マリーはフランス語と英語で、私たちに話す。彼女は美術教師で、家には彼女の描いた色鉛筆画が多く飾られていた。
「何もしないことから?」

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